姫野カオルコ 喪失記  目 次  第一章  第二章  第三章  第四章  第五章  第六章  第七章  文庫版あとがき  第一章  私は男に飢えていた。  質量があきらかに自分よりも重い骨の、その重い威力を知らされたかった。  私は強い。  私の飢えは癒されることはないだろう。プロメテウスのように、私は自分自身の渇きに苛《さいな》まれつづける。  男への飢えに渇いて苦しむ業火の一夜が過ぎると、また、聖なる朝が来る。聖なる日光に照らされ、私の肌は鉄のように強さを増す。そして、また渇いた夜が来る。プロメテウスだ。  夜を口汚く叫びながら、私は朝には笑うことになる。いつか笑う夜も来るのだろうか? ほんのすこし口角を上げるていどの笑いでいいから。 「ギリシア神話、なにが読んだことある?」  私は箸《はし》を置いて大西大介《おおにしだいすけ》に訊《き》いた。  大西はカルビを口に入れたばかりであった。頬《ほお》をふくらませながら、彼は首を横にふった。  鉄板には残りのカルビが煙をたてている。あぶらが鉄網ににじみ出て、焦げ目がついている。 「本は今までに一冊しか読んだことがない」  カルビのあぶらとたれで濡《ぬ》れた唇を、もごもごと動かし、大西は不明瞭《ふめいりよう》に言った。 「中学二年の夏休みに読んだ本。『鼠《ねずみ》の生活』。これ一冊」 「どんな話?」 「どんな話って。筋なんてない。鼠がどれくらいの周期で繁殖していくか、とか、なにが好物か、とか、そんなことが書いてあった」  大西はまたカルビを口に入れ、カクテキも一個、追って入れた。  私もカルビを皿にとり、しばらく冷ましてから、口に入れた。カクテキも一個。  カルビについては、彼も私もやや焼きすぎたくらいが好みだ。ちょうど、今である。あぶら分がにじみ出て、脂肪部分の面積が小さくなり、筋肉が焦げ茶色になったとき。 「ギリシア神話、というのは長い本か?」 「そうね、長いんじゃないかな」 「そうか」  大西はナムルを半ライスの上に全部かけた。私も同じようにした。  ビビンバを二人前注文するより、ナムル二人前と半ライスを二人前注文したほうが具が多くなるし、ライスが、ビール一本を飲みながら食べるにはちょうどいい量になる。 「ここのカクテキ、馬鹿辛く漬けてないし、ちょっと甘みがあってあっさりしてて、うまいな、おい」 「うん」  カルビの肉汁とカクテキのぴりりとした辛味が口内で混ざり合い、こんがりと焦げた香りが鼻孔に抜けてくる。 「このあいだ行った店は、カクテキがまずかった。辛くすりゃいいってもんとちがうわな」 「うん」  ビビンバの大豆もやしを噛《か》みくだくのに忙しく、私は首だけを縦にふった。噛みくだいた大豆の粒と白米とが混ざりあったところで、すかさずロースを口に入れる。ロースはあまり焼き過ぎないほうがいい。ロースの柔らかみと大豆の粒の硬さ、そこにたれの甘味が加わる。それらが口蓋《こうがい》を通過するあたりでワカメ・スープをほんの一口、飲む。スープの塩味が喉《のど》で加わる。 「理津子《りつこ》ちゃん、あんたのぶんのタン、まだ残っとるぞ」  皿にとって冷ましておいたタン塩を、大西は箸で指した。 「うん」  ワカメ・スープをまた飲んでから、私は首を縦にふった。 「ギリシア神話、っていったら聖書みたいな本か?」 「ううん」  タン塩を単独で口に入れ、噛む。首を横にふった。 「ギリシアだからキリスト教とはちがうのか」  大西はサンチュでロースを巻いた。一度巻いてから、またひろげ、カクテキを一個、入れた。 「聖書には神様が豆と煮物をくれるって書いてあったって言ってたな」 「ううん。賛美歌。賛美歌の歌詞を聞きまちがえて私が勝手にそうおぼえていた、って言ったの」 「そうか。賛美歌は聖書とはちがうのか」 「聖書に基づいた歌詞が多いけど」 「本を読むのは目が疲れる」  大西はメニューを読むのも疎《うと》ましがる。 〈俺《おれ》は漢字がほとんど読めん〉  はじめて彼と会ったときの自己紹介がこうだった。  先週、道路で作業をしていた彼が私の自転車を倒し、籠《かご》に入っていた生たまごが割れた。それが知り合ったきっかけである。  年齢は三十六歳、だと言ったと思う。たしか私より三つ上のはずだから。職業は測量士なんだろうと思う。道路でメジャーを持って作業するような仕事なのだから。結婚していたような気がする。いや、している。一度子供が病気になって会えなかったことがあった。が、妻とは別居していると言ったような気もする。 「おいしいね、ここの焼き肉」  私は水を飲んだ。 「うん、うまい」  大西も水を飲んだ。  私と大西は、会って食事をする。  先週、彼が生たまごを割った日から食事をした。この十日間で六回、いっしょに食事をした。食事以外、なにもしない。散歩もしなければ深酒もしない。ただ食べた。 「よし、焼き肉を食べるときはこれからこの店に決めよう」  大西はミノを焼きはじめた。 「俺、調理師になりたかったのにな」 「今からでもトライすればいいのに」 「トライってどういう意味?」 「試みる」 「ふうん。今からじゃなあ。めんどくさい。それに他人のために料理するのはかなわん。自分が食いたい」 「そうだね」  私はミノの焼き具合を注意深く見ている。 「テレビの録画があったと言うとったな。どうだった?」  私は絵を描いていて、先日、トーク番組に参加した。 「どうだった、って……」 「芸能人に出会えたか?」 「芸能人って……まあ、司会の人が芸能人ていえば芸能人かなあ」 「ふうん。芸能人が出ない番組というとほかにはどういう人が出るんだ? ほかの人もイラストライダーか?」 「評論家とか、社会人留学していた人とか、弁護士の人」 「へえ。地味な番組だったんだな」 「うん。すごい地味な番組」  私はミノを口にいれた。さくっと前歯が牛の腸壁を噛む。大西もミノを口に入れた。 「このミノというのは、俺は前、ミノムシのことだと思っとった。それで長いことミノは食べられんかった」 「私は焼き鳥のスナギモというのは砂を思い出すから食べられなかったわ」  砂が口のなかに広がる感触は気味が悪い。 「子供のころ、砂を食べたことがあったの」 「ああ、転んだりしたとき?」 「ううん。食べろと言われて口に入れたの」 「え、なんでまた?」 「矢野小夜子ちゃんに言われて、そうしたの」 「ヤノサヨコ? だれ、それ」 「子供のころ、近所に住んでた子」  矢野小夜子から食べろと言われて口に含んだ砂の味が私の舌や、喉の奥や、頬の裏側にまざまざとよみがえる。  ミノが食べられなくなってきた。 「もしかしたら、あのとき砂を食べたために私は砂人間になってしまったのかもしれません」  怪奇・砂人間。私がそう言うと大西は大きな声で笑ってミノを一度に四切れ食べた。エネルギッシュに咀嚼《そしやく》運動する彼の頬《ほお》を、私は見ていた。 〈この砂、食べてみ〉  私にその行為を命じた矢野小夜子は五歳であった。私も五歳であった。  彼女は近所に住む美しい少女だった。目が小気味よくつり上がり、雛《ひな》人形のように小さな口。身体《からだ》全体も小さく、兎《うさぎ》のように敏捷《びんしよう》にゴム縄を飛んだ。  私は小夜子と、まったく反対の外見をしていた。 〈剥《は》げたキャロローナ、剥げキャロ〉  小夜子は近所の少年たちとともに、私をそう呼んで囃《はや》した。  キャロローナ。それは小夜子の父親が、小夜子が生まれる前に、小夜子の母親にジャワ島から郵送した人形の名前だった。小夜子の父親は船員ということだけしか、私は知らない。彼女の家に父親の姿があったことは一度もなかった。  キャロローナは置いて飾れるように矩形《くけい》の板に打ちつけてあった。なぜキャロローナだったのだろう。わからない。とにかく私がその人形を見せられたときから、それはそういう名前であり、おそらく小夜子にとってもそれははじめからそういう名前だったのだと思う。一枚布を巻きつけたかっこうで椰子《やし》の木の前で果物籠を持って立っている人形だった。椰子の木はごく小さく、そのためキャロローナはひどく大女に見えた。半裸に近いかっこうがよりいっそう肉感を強めた。布地に塗料で描かれた大ぶりの目は、当時の時点でにじんでおり、阿呆《あほう》のようにぼんやりとして、だらしない目であった。口は目以上に大きく、厚く、日本人の考える人形の概念からはまったく外れて、歯が克明に整列して描かれてある。整列した歯はキャロローナをいっそうごつたらしく見せていた。 〈剥げたキャロローナ〉  小夜子がわざわざ、剥げた、と形容詞をつけるのは、その人形が色褪《あ》せていたからである。  彼女の父親が、彼女の母親に人形を郵送してから年月が経っているため、キャロローナの皮膚を作る布は剥げて白くなっていたのだ。  せめて、小麦色だったのだろう元の肌の色であれば、キャロローナももうすこし敏捷な印象であったのかもしれないが、結果としてその人形は鈍重であった。  私はキャロローナを可愛《かわい》くなく思い、小夜子も、近所の少年たちも、同じように思った。小夜子はキャロローナをまったく反対にした外見であり、そして、私はキャロローナの外見をしていた。 〈剥げキャロローナ、アーメン、ソーメン、冷やソーメン〉  近所に住む岩崎康《いわさきやすし》と河村洋一郎《かわむらよういちろう》は、小夜子といっしょになって、私をよく囃したてた。ただ、囃したてるだけで決していじめはしなかった。  鈍重そうな外見にかかわらず私はゴム縄が彼らよりずっと高く飛べ、彼らより遠く毬《まり》を投げられ、駄菓子屋で端数金額のものでないかぎり暗算ができ、なによりも四人の中でもっとも体重が重く大きかった。私は強かった。 「そうだ。強いといじめられん。いじめられたくなかったら強くなるこっちゃ」  大西はサンチュの葉を唇のはしからはみ出させ、言った。 「鬼ごっこのときは鬼になるのが一番ラクだ。かくれんぼのときも鬼ほどラクなもんはない」 「そうだね、ほんとだね」  私は大西がとても好きだった。たぶん生たまごを割ったときから好きだった。 「私たち、よくかくれんぼしたわ。洋一郎ちゃんの家の庭はすごく広くてね」  迷路のような庭で、私は小夜子と康と洋一郎とでよく遊んでいた。     *  ううる鷲《わし》いき朝も  しいずかなある夜も  豆もの  煮物を  くうださるう  神様 「キャロちん、ここにしょ。ここに隠れてたらわからへんわ」  躑躅《つつじ》の下を、小夜子は指さした。枝が折れたあたりにわずかに隙間《すきま》ができていた。  私たちは河村洋一郎の家の庭でかくれんぼしていた。  広い庭である。広大な、と大仰に言ってよかった。子供の体躯《たいく》には。  河村洋一郎の家は『吉幸楼』という、関西では指折りの料亭である。棟と棟とをつなぐ渡り廊下、渡り廊下ごとにある内庭、内庭と内庭をつなぐ複雑な小径。それは子供にとってまさしく迷路であり、ここでかくれんぼをするということは、自分も迷ってしまうかもしれない危険を孕《はら》んだ、胸の高鳴る時間だった。また、洋一郎の母親は料亭の女将《おかみ》らしく子供が庭で遊びまわることを禁じていたので、見つかれば大人たちに叱《しか》られる危険も孕み、胸の高鳴りにいっそう拍車をかけた。 「ここやったら見つからへんわ、な、ここにしょ」  小夜子は多少おびえていた。あまり庭を歩きまわりすぎると迷ってしまう。が、そうした心配をしていることを私に悟られたくない勝気な少女である。 「そやなあ。ここもいいけど、ひとりだけしか隠れられへんわ」  私は声音だけはやさしそうに、心のなかは小夜子を脅《おど》したい気持ちいっぱいで言った。彼女は保育園に行かずいつも母親といっしょにいるせいか、日頃からひとりにされることと暗闇《くらやみ》をひどく怖がる。 「小夜ちゃんだけ、ここに隠れたら? 私は違う場所を見つけるさかい」 「ううん。キャロちんも隠れられるて。な、ここにしょ」  小夜子は躑躅の下にもぐった。苦労することなく、器用にもぐった。  紅の満開の躑躅の下に身を折った小夜子は野生の小動物のように蠱惑的《こわくてき》で、私を立ちすくませた。額縁の中の絵がそこにあるようだった。 「なにしてんの。ほれ、入れるやんか」  小夜子は私を呼んだ。小さな口を尖《とが》らせ、私を催促している。四つん這《ば》いの体勢は臀部《でんぶ》を私に見せていた。ジャンパー・スカートから尻《しり》はまんまるに見えている。 〈小夜ちゃんのお尻はいいお尻〉  岩崎康が前に言ったことがあるのを、私は思い出し、つくづくと彼女の尻をながめた。  バナナや桃。マスカット。駄菓子屋の籤《くじ》で当たった首かざり。メロン。マーブルチョコレート。  そんな、価値のあるもの、として、私は彼女の尻をながめた。 「早《は》よう、早よう。なあ、入れるやんか」  小夜子に呼ばれ、私はしゃがみ、彼女の尻をてのひらで触った。 「あかんて。私はどっかちがうとこにする」  提案するふりをして触った。 「ほな、うちもちがうとこにする」  小夜子はふたたび器用に躑躅の下から抜け出た。 「あっちへ行ってみいひん?」  私は小夜子の手を握って引っ張って行った。 「どうもないか?」 「なあ、どうもないか?」  足を踏み入れたことのない方向へと歩いていく私に、小夜子はいくども尋ね、おぼつかなげな声が私を興奮させた。  バナナや桃。マスカット。駄菓子屋の籤で当たった首かざり。メロン。マーブルチョコレート。財宝を略奪して逃げるような興奮だった。小夜子の手は小さく、私の大きな手の中にすっぽりと征服されている。  私はどんどん庭を歩いて行った。迷ってしまう怖さは、私にとって「迷ってしまうかもしれない危険な胸の高鳴り」に納まるていどのものである。  私は生まれたときから他人の家に預けられていた。預かり手は数人に及んだ。そのためだろうか、なんとなく、いつもすでに迷っているような感覚が肌身にあった。 「キャロちん、もう帰ろ。もう帰ろうな」  料亭特有のものものしい建物がどこにも見当たらない場所に来たとき、小夜子は私にしがみついた。  興奮が増した。  愉快だった。  岩崎康や河村洋一郎や、それに小夜子の母親のあいだに君臨する、この近所の女王が勝気さを失い、おどおどしているのがぶざまで愉快だった。  そして同時に小夜子の肌ざわりが快感だった。もっと小夜子を触りたかった。 「どうもないて」  私は小夜子を抱き返した。 〈弱い人を守ってあげなさい〉  コートネイさんがよく言うことばを思い出し、私は小夜子を守ってやろうと思った。ふとももの内側がむずむずとするような感触がいかなる根拠により生じるのか、わかりかねながらも。  ただ、コートネイさんには隠しておかねばならない感触であることは確信しながら、 「あそこ、あそこに隠れへん?」  八つ手の木の繁ったところを、私は指さした。 「いやや」  暗がりを怖がる小夜子は、拒否した。 「そんなら、ここにひとりでいたらええわ」  ひとりにされることを怖がる小夜子に私は言った。  小夜子はしぶしぶ私についてきた。  八つ手の枝をかきわけたときである。  がらりと音がして、私たちの目の前で戸が開いた。  真っ白な髪を肩まで垂らし、頭部のてっぺんは禿《は》げた、眼帯をした老婆が真正面にすわっている。 「きゃーっ」  私たちは叫び、固く手をつないで一目散に走った。どこをどう走ったのかわからない。とちゅう転んだような気もする。転んでもすぐに起き上がり、とにかく、老婆のいる位置からできるだけ遠い方へと走った。  意匠を凝らした欄干のある橋が見えた。遣《や》り水にかけられた飾り橋である。  特徴のある橋なので、庭でかくれんぼするときのチェック・ポイントになっていた。 「助かった、助かったわ」  私は小夜子の肩をなでながら、息をついた。小夜子はわあわあと泣いて私に抱きついた。 「まあ、まあ。どないしたんや、二人ともそないに息せき切って……」  仲居さんのなかでは子供に甘いひとりが、私たちを見つけた。 「お、おばあさんが、庭に、庭に……」 「かくれんぼをしてたん。眼帯のおばあさんが」 「怖いおばあさん。いはったんや」  小夜子と私は遣り水のなかから橋の上の仲居さんに要領の悪い説明をした。  仲居さんは、ほほ、と笑いながら手を引いて私たちを遣り水から出させ、 「離れのほうに行ったんやな。おばあさんは洋一郎ぼっちゃんのおばあちゃんやで。怖いなんて言うたらあかへん。目が悪いさかい、離れで静かに暮らしてはるんや。なんにも怖いことなんかあらへんがな」  小夜子の涙を拭《ふ》いてくれた。  私が身振り手振りで老婆の外見を説明すると、 「そら、髪の毛をとかしてはるとこやったんやろ、たぶん」  仲居さんは私のほうは見ずに、小夜子の顔をのぞきこんだまま言った。 「小夜ちゃん、泣くことあらへんがな。なあ、びっくりしたんやなあ。飴《あめ》でもあげよか」  小夜子の頬《ほお》をなでたり、肩を抱いたりしている。  私は老婆のことを考えることに努めた。しばらくのあいだ、仲居さんと小夜子の邪魔をしてはならない、と思い。 (そうか。髪の毛をとかしてはったからか。おばあさんの髪というのは、誰でもほどくとあんなふうに長いのか)  それから河村洋一郎と岩崎康のことも考えた。 (康ちゃんはどこへ隠れはったんやろ。洋ちゃんは鬼やのに、どこにいてるんや)  そんなことを考えていれば、自分の気配が消えて、他人の迷惑にならないような気がした。 「あんた、小夜ちゃんを家まで送ってあげてくれるか?」  小夜子も康も洋一郎も生まれたときから、この近所の子供である。私は最近になってこのあたりに住むようになったために、仲居さんは私の名前を知らなかった。 「うん」  仲居さんに裏門まで連れていってもらい、私は小夜子の手を引いて『吉幸楼』の迷宮を脱出した。     *  コートネイさんは礼拝堂の椅子《いす》を拭いていた。 「理津子、お手伝いをしてくれますね」  帰ってきた私に、彼はぞうきんを渡した。 「はい」  私はコートネイさんのやるように、椅子を拭きはじめた。 「おともだちと何をして遊びましたか」 「かくれんぼです」 「そう」  コートネイさんは椅子を拭いた。私も拭いた。  二月から、私はコートネイさんのところに預けられている。コートネイさんは神父だ。コートネイさんの前は小菅さんで、その前は堀川さんで、その前は所沢さんで、その前は高木さんで、その前は古田さんで、私の記憶があるのは古田さんまでである。  三時までは『聖母の岸保育園』にいて、そのあとは預かり手の家に帰る。夕飯までのあいだが、その近所の子供と遊ぶ時間。近所の子供は預かり手の家によって変化する。これが私の記憶のある時点からの私の日課である。  私にとってコートネイさんは印象的な人だった。イギリス人であるということのほかに私がはじめて接した静けさを持っていた。  コートネイさん以外の家は、家族が多かったり、お店を持ったりしていたのでそう感じたのかもしれない。とにかく静かな人だった。また、厳しい人だった。私はコートネイさんが嫌いではなかった。好きだといってよかった。  けれどもコートネイさんはとても静かなので話しかけては迷惑がられると思い、いつも話しかけないようにしていた。 『吉幸楼』から山と反対の方向に向かって歩いて十分くらいのところ。ここにちょっとした林があって、コートネイさんの教会は林のなかにある。  あまり日があたらないので礼拝堂のなかはたいてい冷え冷えしていた。 「ありがとう。じゃあ、ヤクルトを飲んでいらっしゃい」  すべての椅子を拭き終わったところでコートネイさんは私のぞうきんを取った。 「はい」  礼拝堂の後ろのほうにある戸を開けると一畳ほどの簀《す》の子《こ》が敷いてある。そこを通って別棟の戸をあけるとコートネイさんの住居である。  六畳の台所兼食堂、六畳のコートネイさんの部屋、三畳の私の部屋。風呂《ふろ》はなかった。  冷蔵庫を開ける前に私は色の予想をした。ヤクルトの小瓶の蓋《ふた》のまわりにはセロファンのカバーがかかっていて、毎日、色が代わる。 「今日はピンク」  口に出して言ってから、冷蔵庫を開けると黄色いカバーのヤクルトが手前にあった。 「わあ、黄色や」  うれしい。黄色のカバーはめずらしい。私はカバーをはがして、それを光にかざした。それからヤクルトを飲んだ。 (ローリーのほうがおいしいやんか)  河村洋一郎はよく言う。彼の家では雪印ローリーをとっていて、遊びに行ったときにもらったことがある。ヤクルトより甘く、酸味が弱い。私はヤクルトのほうが好きだ。 「理津子、六時になったら松子先生が来ますから、お風呂に行きなさい」  コートネイさんは出入口の脇《わき》の棚に置いてある盥《たらい》を指して言った。 「はい」  松子先生は『聖母の岸保育園』のシスターで、コートネイさんのお手伝いをしている。ときどき夕飯を作ったり、私の洋服のほころびを繕ったりしてくれる。銭湯へは松子先生といっしょに行く。 「六時ですからね」  コートネイさんは念押しした。 「はい」  私は壁の時計を、見るだけは見た。  私は時計が読めない。駄菓子屋の暗算ができるのに時計は読めない。十二時と三時と九時だけわかる。  コートネイさんが私の前に腰かけたので、私は緊張した。 「ごちそうさまでした」  と、ヤクルトの瓶を置いた。  松子先生が来たら呼んでや、と、言おうかどうしようか迷う。コートネイさんに自分から話しかけることは、私にとって勇気がいる。  コートネイさんが軽く咳《せき》をしたので、話しかけるタイミングかと思い、 「松子先生が……」  と、言いかけた。しかし、声が小さかったのでコートネイさんには聞こえなかった。そのため、ますます言えなくなった。  黙って三畳間へ行った。  三畳間は中二階のようなところにある。  もともとは風呂場があったのだが、水の出が悪いので風呂場を壊して物入れにし、中二階をつくったのだと、私はあとになってからコートネイさんから聞いた。  三畳間は日当たりが一番良くて、とても「外国ふうな」部屋だった。 「ここが理津子の部屋です」  と、はじめてコートネイさんから言われたとき、私はすこしわくわくした。  壁の模様が、森永のマリー・ビスケットにそっくりで、壁を見ているといつもおなかがすいてくる。 〈童話の挿絵に出てくるみたいな部屋やんか、よかったなあ〉  母親も言っていた。母親とは月に一度会った。会うと『こだま屋』でクリーム・ソーダが飲めるのでうれしい。私はクリーム・ソーダを飲んでからきつねうどんを食べるのが好きだ。クリーム・ソーダの甘いくどさが、きつねうどんの出し汁ですうっとすっきりしていく。 〈コートネイさんに英語を教えてもらいや〉  父親は言う。父親とも月に一度会った。会うといつもおみやげに持ってきてくれるおにぎりがたのしみだ。 〈鮎《あゆ》の肝のとこを塩辛にしたやつのおにぎりやで〉  先斗町《ぽんとちよう》の何とかいう難しい名前の店から買ってきて私に半分を食べさせてくれた。そして、よく自動車を買ってくれるのでうれしい。私はジープとアメリカのパトカーが好きだ。  松子先生が来るまでのあいだ私はジープにサオリちゃんを乗せてあげた。  サオリちゃんは駄菓子屋で十円で買った紙の着せ替え人形。名前は私がつけた。ベレー帽をいつもかぶったままなのが気にいらないのでマジックで黒く塗りつぶして髪の毛にしたが、よけいへんになってしまった。 (明日はライス・チョコレートを買うのをがまんしてお金をためて、新しいのを買おう)  ライス・チョコレートも十円。コートネイさんは毎日、十円ずつくれる。一日がまんすれば新しい紙着せ替えが買える。 「サオリちゃん、あなたはジープに乗って キケン ナ タビ に出ました。神様はお怒りになりました」  私は『聖母の岸保育園』の園長先生の口調をまねて言い、ジープをきつく壁にぶつけた。 「サオリちゃん、さいなら」  紙人形をやぶった。手を組んでお祈りをした。 「理津子、松子先生が来てくださいました。お風呂に行ってきなさい」  コートネイさんから呼ばれ、私は先生と銭湯に行った。     *  園長先生はおばあさんだが、松子先生は、おばあさんとおばさんの、そのちょうど中間のようなかんじだ。 「理津子ちゃん、えらいねぇ。お父さんとお母さんとたまにしか会えへんのに泣いたりせえへんもんなあ」  湯舟につかると松子先生は言う。なぜえらいのだろう。よくわからない。 「他の子は泣かはるん?」 「うん、そうや。小夜ちゃんかてお母さんがちょっと買い物に行かはったら泣いてはるやろ」 「なんで?」 「なんで、て。そらさびしいさかいにやんか」 「なんで、さびしいん?」 「なんで、て……そら、そういうもんやさかいにや」 「そやけど、いつも神様がそばにいてくれてはるんやろ」  私が言うと松子先生はにこにこした。 「そうや、そうや。かしこいなあ、理津子ちゃんは。ほんまにあんたはかしこい。コートネイさんもそう言うてはるえ。犬のこと英語で言えるようになったんやて?」 「うん。ドッ」 「猫は?」 「キャッ。靴はシューゥ、雨はゥレインなんやて」 「いやあ、すごいなあ。ほな、お風呂は?」 「お風呂は……お風呂はなあ、むずかしい。えと……テカバスや」 「へえ、そうかあ。ほんまに理津子ちゃんは利発な子たちや」  松子先生が褒めてくれるので私はうれしかった。銭湯からの帰り道、私は彼女に賛美歌をうたった。  ううる鷲《わし》いき朝も  しいずかなある夜も  豆物  煮物を  くうださるう  神様  ううる、と鳴いている鷲が空を飛ぶ朝。静かな夜。豆の佃煮《つくだに》をおかずにくれる神様。  この賛美歌の意味を私はこう解釈していたが、 「理津子ちゃん、それは、麗しき朝も静かなる夜も食べ物、着物をくださる神様、や」  松子先生はたのしそうに笑った。     *  岩崎康は小夜子に耳打ちをした。小夜子は河村洋一郎に耳打ちをした。康と小夜子は、くく、と含み笑いをし、洋一郎は二人に追随するように遅れて笑った。 「どうしたん?」  私はしかたなく訊《き》いた。  訊かなくてはならないな、と思い、訊いた。  こうした状況は、前からなんどもあった。小菅さんの家では小菅さんのお兄ちゃんと妹の千鶴ちゃんが、堀川さんの家ではクーちゃんとターちゃんととなりの家の茜ちゃんが、所沢さんの家では所沢さんの家の三人の女の子が、しじゅう耳打ちをしあっては含み笑いをした。  所沢さんと小菅さんの家での耳打ちが辛かった。きょうだいであること、その絶対性に私は敗北しなければならなかった。  それにくらべれば、康と小夜子と洋一郎の結束など弱い。  耳打ちの内容にさして興味もわかなかったが、どうしたのかと訊けば、耳打ちしあった側は満足して機嫌がよくなることを学んでいた。 「なあ、どうしたん?」  今日のヤクルトの蓋《ふた》カバーの色は何色だろうかと考えながら、私はくりかえした。 「なんでもあらへん、っと」  嬉々《きき》として康と小夜子は笑った。小夜子はやや上目づかいになり、口を小さな手でおさえている。 (わあ、かわいい顔。なんちゅうかわいい顔やろ)  小麦色の肌のなかで白目の部分はより白く見える。怜悧《れいり》に見える。 (松子先生は私のことを、かしこい、って言わはるけど、小夜ちゃんの顔のほうがずっとかしこそうや)  小夜子は康の腕によりかかっている。康は小柄な少年だが、彼以上に小夜子は小柄である。小夜子は少年に守られるべき存在として私の眼前にあった。 「なんやの、教えてえな。なあ、なあ」  小夜子を笑わせたくて、私は大袈裟《おおげさ》に訊いた。小夜子はますます笑った。くっ、くっ、という鳩の喉笛《のどぶえ》のような息は魅力的だ。自分の腕によりかかってほしい。  私は岩崎康の肩を突いた。彼の手首をひねりあげ、小夜子からひきはなした。彼の力は私に劣っていた。 「サクランボや」  康は舌を打ってから、いまいましそうに私に言った。 「ユーワクへ行ったらサクランボがもらえるんや。ちょっとだけしかあらへんさかい小夜ちゃんにだけあげるんや」  康はよく�ユーワクへ行ったら�ということばを口にする。ユーワクとはどこのことなのか、なんのことなのか、私にはわからない。松子先生に訊いたことがあるが、先生もわからないと言った。  ユーワクへ行ったときにもらった造花。ユーワクへ行ったときにとってきたハンカチ。ユーワクへ行って見つけた指輪……そんなものを、康は小夜子にやっていた。 「な、小夜ちゃん、あとでユーワクに行ってサクランボもろてくるさかい……」  康は小夜子にまた耳打ちをした。だが、小夜子は洋一郎に耳打ちをつづけることはなく、うつむいている。 「な、な」  康は小夜子にくりかえす。  洋一郎は私のそばに来た。  小夜子も康からはなれ、私と洋一郎のそばに来た。  康は黙って向かい側に立っている。 「なあ、あの洞穴《ほらあな》のそばまで行ってみいひん?」  沈黙の気まずさを消そうとするかのように、小夜子が提案した。 「長寿山のか?」  洋一郎が興味を示す。  長寿山はこのあたりから少しばかり歩いたところの小山である。山のふもとに小さな稲荷《いなり》があり、稲荷のわきに沼がある。沼は山肌に接していて、山肌に洞穴がある。  洞穴の奥のほうは暗くてよく見えないが、石の机が一つ置いてあるように見える。 〈石の机の向こうには髪の長い女の人がいて死んだ赤ん坊に青い薬を飲ませてはるんや〉  そういう噂《うわさ》が前々からあった。  高木さんの家にいたときにも聞いたことがあるし、高木さんの家の近所の子供たちと数人で洞穴探検に挑戦したこともあった。二歩ほど入って、みんなやめてしまう。一人だけ、四歩ほど入った少年がいたが、叫びながら出てきたので、噂はますます信憑性《しんぴようせい》を帯びていた。 「よし、行こ。ぼくが入ってみたる。そのかわり、小夜ちゃん、ぼくが入ったらさっきのこと絶対やで」  康は小夜子を見つめた。小夜子は目をそらせた。 「そやけど、行くからには懐中電灯か蝋燭《ろうそく》がいるんとちがう?」  私は言った。 「ぼくが持ってきたるわ」  洋一郎が『吉幸楼』から持ってくることになった。 「洋ちゃん、それから……」  取りに行こうとする洋一郎を康が引き止めた。耳打ちをする。 「え、それは……」  洋一郎が困った表情を浮かべた。 「持ってたやろ」 「うん……そやけど……」  洋一郎はうつむき、康はさらに彼に耳打ちし、小夜子はじっと康を見ている。 「キャロちん、先に行こう」  そのうち、小夜子は私の腕をとった。 「どうしたん?」 「うん? あんな……」  小夜子は両腕でぎゅっと私の腕をにぎった。 「どうしたん?」  私はほほえんで彼女の肩に腕をまわした。私はうれしかった。駄菓子屋の買い物の計算もできず、非力で、ちびの康なんかより私のほうが小夜子を守ってやれる。 「サクランボをやるさかい、洞穴にも入ってみせたるさかい、そやさかい……」  小夜子の声は窄《すぼ》んでゆく。 「そやさかい……康ちゃんは、そやさかいうちに……」 「そやさかい?」 「そやさかい、お尻《しり》を見せろて。お尻見せて写真撮らせろて……」  小夜子は私の腕にすがった。  私は小夜子の肩をさすりながら、康の気持ちにも共感した。そしてすぐに怖くなった。私の心の中を神様が見ている。  そのとき、走ってきた康と洋一郎が私たちに追いついた。 「キャロちん、どうしょ。なあ、どうしょ」  小夜子が私に耳打ちをした。私はよろこびでいっぱいになった。はじめて私は耳打ちをされる側に立ったのだ。 「そんなもん、だいじょうぶや。康ちゃんがあの洞穴に入れるわけないやんか」  私は耳打ちで小夜子に返した。 「そうやろか……」 「入れへん。あの子は弱いもん」 「洋ちゃんが入ったら?」 「入れへん。あの子も弱い」 「サクランボは?」 「そんなもん、もらわへんかったらええやろ」  耳打ちのやりとり。今までみんな、こんなふうなことを耳打ちしていたのだろうか。 「なんや? どうしたんや?」  洋一郎と康が私たちに訊いてくる。 「なんでもあらへん、っと」  私は優越感にひたった。 「小夜ちゃん、カメラ持って来たで」  康は洋一郎の首を指した。 「ふうん、ちょっと見せて」  洋一郎が首から下げているカメラを、私は引っ張った。軽い。おもちゃのカメラである。私は徹底的にこの男たちを見下げた。 「まりあさまのおころもはきらきらきらきらきれいです」  私は賛美歌をうたった。 「なんやのん、それ」  小夜子は笑った。 「キャロちんはいつかてアーメンの歌ばっかりや」  洋一郎と康も笑った。 「そんなら、ほかの歌をうたお」  私も笑った。 「うん、うたお」 「カオカオカオカオ、みんなカオ……」  月のマークの花王|石鹸《せつけん》。  私たちはうたいながら長寿山の沼に着いた。沼にはだれもいない。ときどきザリガニ取りに来る子供たちもいるのだが。  洞穴の周辺は灌木《かんぼく》がとりまき、葉はざわざわと音をたてている。 「あ、キツネが動きよった」  洋一郎が稲荷のほうを指した。 「うそや」  小夜子は洋一郎をたたいた。 「動きよったように見えたんや」  洞穴の中の髪の長い女の人の噂とともに、曇った風の日には稲荷のキツネが首を動かすという噂もある。  四人は黙った。びくびくしていた。風が強くなったような気がする。曇り空がもっと曇った気がする。  横一列になって洞穴の前に立った。 「照らしてみような」  洋一郎が懐中電灯を洞穴の中に向ける。たしかに奥に白い石の机があるようだ。 「おーい」  康は声を投げた。 「康ちゃん、ほんまに入れるんか?」  小夜子が康に訊《き》いた。 「入れる」  康は洋一郎から懐中電灯をひったくり、足を洞穴に一歩踏み入れた。 「奥の奥まで入るんやで」  私は意地悪く言った。 「わかったるわ」  康は私を睨《にら》み、もう二歩、先に進んだ。  みな、黙っている。  康がもう一歩足を出したところで、ばさ、という音がした。 「わーっ」  康は身体《からだ》の向きをかえ、走りだした。小夜子と洋一郎も走った。  私だけが残った。怖くて身がすくみ、動けなかったのだ。 「キャロちん、どうもないのか? どうもないのか?」  小夜子の声だ。ゆっくりとふりかえる。小夜子と康と洋一郎は沼の向こう側から私を見ている。 「キャロちん」  小夜子は康の腕に抱きついていた。非力でちびの康が守ってくれるはずはないのに。 「小夜ちゃん、私が入ったるわ」  私は大きな声で言った。懐中電灯が足元に落ちている。それを拾った。  私は洞穴の奥まで入った。入ってみると意外に狭い。石の机の置いてあるところからさらに奥まであると思っていたのに、せいぜい二歩ぐらいで行き止まりである。  首を回し、洞穴全体を眺めた。机の上にあたるところに神社の札のようなものが貼《は》ってある。難しい字が書いてある。  唾《つば》を呑《の》み込んでから、洞穴の外に出た。 「キャロちん」  小夜子が私に抱きついてきた。 「すごいなあ。すごいなあ」  小夜子は私の腕をとり、手をにぎる。 「ほんまや。すごいで」  洋一郎まで私の肩をゆすぶった。従者の手である。 「ようやるわ、キャロちん」  康は完全に私より弱かった。 「うん。べつになんにもあらへんかったわ」  私は小夜子の手をきつくにぎった。 「ほなら、帰ろか」  康が言い、私たちは長寿山をはなれた。  歩きながら、小夜子はずっと私の手をにぎっていた。 「小夜ちゃん」 「うん?」  私を見つめる小夜子に、私は耳打ちをした。 「康ちゃんに頼まれたこと、私にして」  小夜子は立ち止まり、しばらく考えていたが、 「わかった」  と、私の手をふたたびにぎった。そして右半身だけをかがめるかっこうで道の砂をすくった。 「そやけど、その前にこの砂を食べてみ」  耳打ちをされた。  時間が経っていればできなかったかもしれない。が、洞穴の奥まで入ってみせた勝利の興奮が覚めぬときだった。 「わかった」  と、私はそくざに砂を口に含んだ。 「キャロちん」  小夜子は私の手をさらに強くにぎった。私は砂が喉《のど》にまで滑り落ちていかぬよう必死で舌の下にとどめ、必死で吐き気をこらえながら、彼女の手をにぎりかえした。  それほどまでしても、私は小夜子の尻が見たい。  長寿山から線路を横切り、映画館の裏手に出る。線路を横切りざま、駅員が私たちを見つけて注意した。私たちは走った。そのとき三人に遅れるふりをして、私はそっと砂を吐いた。  映画館の裏手に出ると、 「キャロちん、死なへんな。な、な」  と、砂を食べたものだと思っている小夜子は私の生命を案じはじめた。 「わからへん。そやさかい、見せて」  私はしだいに露骨に頼みはじめた。 「わかった……。どこで? どこにしょ?」 「あそこでええわ」  映画館の倉庫を指さした。  ブロックの高い囲いの上に屋根を取り付けた小屋である。ブロックと屋根のあいだには広い隙間《すきま》があって風が吹き込み、光も射し、暗くないので小夜子が怖がらないだろうと、私は思った。 「うん、わかった」  小夜子はうなずき、康と洋一郎に、 「うちらはこれから二人で遊ぶわ。先に帰ってて」  と、近所の女王の威厳で命じた。 「康ちゃん……」  私は康を呼び止めようとしてとちゅうでやめた。何を言いたかったのかわからない。 「行こ」  小夜子に手を引かれ、私は康が洋一郎と去ってゆくのを一瞥《いちべつ》した。  倉庫に入るなりすぐ、小夜子はスカートをまくり上げ、後ろ向きになるとパンツを下ろした。  高い所から射してくる、曇りの日の弱い光が、小夜子のむきだしの尻にそそいだ。丸い尻だった。 「はい、終わりや」  小夜子はスカートを下ろし、パンツを上げた。 「うん」  私は小夜子のブラウスの袖《そで》を引き、 「もう出よ」  と、倉庫を出た。 「うちの家へ来る?」  小夜子は言ったが、私はそのままそこで彼女と別れた。  教会へ戻ってから、私は何度も何度も口をすすいだ。 「理津子、ヤクルトを飲んでもいいです」  コートネイさんが言っても、ヤクルトを飲まなかった。     * 「なんで飲まんかった? ヤクルト」  大西はチゲ豆腐を小鉢に取りながら言った。 「神父さん、ヤクルトを飲んでもいい、と言ったんだろ」 「たぶん、罰だったんだわ」  罪には必ず罰がくだされる。私は自分に罰をくだしたのだと思う。 「飲んでいいと言ったんだから飲んでいい」  大西は私にもチゲ豆腐を取ってくれた。 「ありがとう」 「ミノは俺《おれ》がほとんど食ったから、チゲはあんたが食いな」 「ありがとう」  私はチゲ豆腐を匙《さじ》にすくい、冷ますために何度も息をかけた。 「しかし、子供のころのことをよくそんなにおぼえてるな」 「そう? そうかな」 「俺なんか全然おぼえてない。思い出せない」 「変動の激しい、活気にあふれた暮らしをしてきたからじゃない?」  私の暮らしは静かである。 「私、ずうっと静かに暮らしてたから。すごく静かだったの」  子供のころのまま変化がない。十代のときも、二十代のときも、そして三十三歳の現在も、変化というものがない。 「でも、女は色々と変わるっていうぞ」 「変わらないの」  麗しき朝も、静かなる夜も。毎朝、私は今でもこの歌をくちずさむ。 「それでも学生のころはごくふつうに人と会う暮らしだったんだけど……」  私は京都にある短大の教養美術科を出たあと、上京してデザイン学校に入った。 「テニスしたりもしてたわ」  卒業後から加速度をつけて暮らしが静かになって行った。今では一カ月間、人と話さないこともすこしもめずらしくない。 「だってCMに出てたことがあるんだろ。静かか、それ?」 「静かよ。むしろよけい静かになった気がする」  学校卒業後、三十歳まで私は靴を買い直すにも困る生活であった。三十歳のとき、一般的ではないが業界内には注目されるコンクールで賞をとり、学生時代の友人が広告代理店に動めていたことから生理ナプキンのCMに出た。同じバージョンのコピーを短期間ずつ別人物が語るCMで、目立つものではない。 「でも、たしかに注文が増えたし経済的にはらくになったの」  雑誌の取材も増えた。しかし、私が語るとき、そのときはすでに取材サイドには私の語るべき答えは用意されている。こう言え、とはむろん命令されない。だが、実質上、すでに私のコメントは用意されているのである。絵を描いている独身の、恋愛にたけた三十三歳の女の発言として似合うコメントが。 「三十歳からよけいに静かになった気がする」 「なんで?」 「なんでって……。よけいに静かになった気がするからよ」  答えになっていないとはわかっていたが、ひとことで説明できる能力を私は持ち合わせない。 「テレビでは、ライトがまぶしくて、それに時間を計られて、なんにもしゃべれなかったわ。番組中、ぼーっとしてただけだわ」 「いいじゃないか、それで。芸術もテレビには勝てん」  大西は、私にCMの話を持ってきた友人と同じことを言った。 〈芝居だって歌だって本だってテレビに出てるやつのものが売れるのさ。二科展だってテレビに出てるやつの絵が入選する〉  友人はそう言ってさっさとCM契約書に記入しはじめたのだった。 「CMに出たって注文がこない奴《やつ》にはこないさ。芸術もけっこうだけど、ビジンはビジンを売り物にしていいんだ。絵を描いてるなんていったってそんなもん、売れてなんぼの仕事だ。ズリセンしてるんじゃねえんだから」 「クリアー」 「クリアー? クリアーってどういう意味だ?」 「明晰《めいせき》」 「そうか。テレビとかでクリアビジョンってときどき言う、あのクリアーか。よく英語を知ってるんだな。そうか、神父さん、イギリス人だったんだもんな」 「日本語でしゃべってたのよ」 「今はどうしてる? 日本にいるのか?」 「アイルランドにいる。私が小学校六年の二学期、アイルランドに帰ることになったの」  六年生になった春、父親の何度目かの事業が軌道に乗り、私は両親といっしょに住むことになり、教会のある町よりはもうすこし大きな町に引っ越した。その年の秋にコートネイさんは帰国した。 〈イギリスではなくアイルランドです〉  彼が教会を引き払う日、挨拶《あいさつ》に行くと、彼は両親にそう言っていた。 〈理津子、歯をだいじにしなさいね。いつまでも歯茎が桃色でありますように〉  私にはこう言った。  小学生の私はその意味がよくわからなかった。なぜ、別れの挨拶に歯や歯茎のことを言うのか。歯茎が桃色、という表現が理科の観察のときに用いる表現のようで奇妙な心地がした。  コートネイさんのことは好きだったが、別れる日、悲しくはなかった。またいつでも会えると思っていたのだ。 〈コートネイさん、また来てね〉  と、言おうかどうしようか迷った。コートネイさんのことは六年間ずっと好きだったがずっと話しかけにくかった。話しかけにくい彼の雰囲気もまた好きだったのだと思う。 〈アイルランドのりんごを送ってあげましょう。りんごは歯をきれいにするそうです〉  コートネイさんはトラックに乗る直前、私に言い、私はせいいっぱい大きくうなずいた。それで六年間の感謝を示したつもりだった。 「それ以来、会ってない。今でも毎年、乾燥りんごを送ってきてくれるけど」 「乾燥りんご? アイルランドの名産か?」 「さあ。乾燥りんご、という名で呼んでいいのかどうかよくわからないのだけれど、干したりんごを細かく刻んだようなやつ」  クリスマスが近づくとボール紙の箱が届く。新書判くらいの底面の直方体の箱である。箱の上にクリスマス・カードが貼《は》ってある。 〈丈夫な人に医者はいらない〉  はじめて届いた乾燥りんごの箱に貼ってあったカードに書いてあった。それを読んだ母親は、 〈なんのことやろ?〉  と、首をかしげた。  私は両親と暮らすようになってから日曜学校に行かなくなってしまったが、そのときはまだ日曜学校での記憶が新しく、「今日の暗唱文」になったことばはよくおぼえていた。  丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。 〈マルコによる福音書二章十七節や〉  私が言うと母親は気のない返事をして乾燥りんごを一口食べた。  私はあまり母親と話さなかった。『こだま屋』でクリーム・ソーダときつねうどんを食べさせてくれた母親と、同じ家の中に住むようになった母親とは別人のような感じがした。  父親ともあまり話さなかった。「鮎《あゆ》の肝のおにぎり」を買って来てくれた父親と、同じ家のなかに住むようになった父親とは別人のような感じがした。  母親と父親もあまり話さなかった。  広い家に三人で住むようになってから、三人ともほとんど話をしなかった。寝る部屋も食事も別々だった。  コートネイさんはその規律正しい厳格さと静寂さゆえに話しかけづらいところがあったのだが、両親は二人とも壁の向こう側にいるような気がして話しづらかった。よその家の人の前でかしこまっていなければならない遠慮があった。  乾燥りんごは酸味が強く、毎年、二、三日スプーンですくっただけで、いつもそのまま残っていた。 「すっぱいのか? なんか、その乾燥りんご、今食いたいな」 「そうね。焼き肉のあとならおいしいだろうな。そのままでも。すこしなら」  私と大西はしばらく黙っていた。私は口の中に乾燥りんごの酸味を思い起こし、それをデザートにしていた。大西も同じ想像をしていることに確信があった。私たちは食べ物の好みが、濡《ぬ》れた革のジャンプ・スーツのようにぴったりだった。 「明日、寿司を食いに行こうか」 「うん」  私たちは明日の待ち合わせ時間と場所を決めると駅で別れた。  大西は毎回、食事代を支払ってくれ、それは私にとって、とてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとても、とてもとても、とてもとてもとてもとても、とてもとてもとてもとても、とてもとても、とてもとてもとてもとてもとてもとてもとても、とてもとてもとても光栄なことだった。  第二章  大西が生たまごを割ってくれたことは幸運であった。  名古屋コーチンを放し飼いにしている農家が駅前の路地にたまごを売りにくる。それを六個買って自転車の籠《かご》に入れておいた。プラスチックの容器ではなく紙の袋に入っていたので、自転車が倒れるとたまごはみごとに全部割れた。  袋のなかで割れたものはなく、六個ともが袋から出て、割れた。雨あがりでアスファルトは濃い灰色になっており、そこに真っ黄色いたまごが現われた。白身の部分はアスファルトの濃い灰色をてろりと光らせていた。 〈どうして黄身は割れんかったんだろう〉  大西は言った。  六個が六個とも、なぜか黄身は壊れず、まるい玉のまま、黄色くアスファルトに浮き上がっていたのだった。  私と大西は六個の黄色い玉をあいだにはさんでしばらくうつむいていた。 〈名古屋コーチンだからかもしれません〉  私が言うと、 〈そうか。やっぱり名古屋コーチンはすごいんだな〉  大西は言った。その瞬間、私はこの男と食事をすると思った。 〈どこで買ったたまごです?〉 〈あっちの路地で〉  すぐに二人で買いなおしに行ったのだが、もう農家の売人は帰ってしまっていた。そしてやはり、私は大西と食事をすることになった。  六回の食事で、彼についてとりあえずよくわかったのは、自分のことを話さないということである。私は何度も彼に、彼についてのことを尋ねたが、彼はほとんど話さなかった。話したくないのか、話すのが嫌いなのか不明である。ただ、食べたがった。  彼との七回目の食事は寿司屋である。 「この店は俺《おれ》の自信作だ」  JRと地下鉄と私鉄を乗り継ぎ、狭い寿司屋に入った。  カウンターに並んで私たちはガラス・ケースの寿司ねたを物色した。 「何にしようか。あんた、嫌いなものはないよな」 「ない」 「じゃあ、さばにしよう」  前にさばが置かれ、まず私たちはそれを眺める。  インディゴ・ブルーがくっきりと波打ち、インディゴ・ブルーから藍ねずに、藍《あい》ねずからシルバーへと色の波がぎらついている。切り口は包丁が鋭く入っており、刀のようにさばはその表面を見せていた。  酢でしめられた身は濃いあずき色と淡いあずき色が、しっとりと濡れて身割れしていない。緻密《ちみつ》な肉である。  大西と私は同時に手をのばした。寿司ねたを眺める時間も、私たちは一致していた。  さばを噛《か》む。青い魚特有の明快な匂《にお》いと濃厚なあぶら、それを酢の酸味がひきしめて舌の上と頬《ほお》の内側にぶちあたる。  満たされた私の喉《のど》はひくひくと鳴るように上下した。 「酸味がちょうどいいだろ、ここのさば」  大西の声が右の耳のすぐそばで聞こえ、 「…………」  ええ、と私は答えたつもりだったが、噛み砕いたさばが喉を通過していき、かすれた息だけを吐いた。  さばを呑《の》みこんでから、 「やっぱり酢はアクセントにしてこそ、ひきたつものだよね」  私はコートネイさんの乾燥りんごをいつも食べきれずに残していたことを思い出した。 「二、三口ならおいしいの。でも単純にすっぱい味しかないから、それ以上は食べられないのよ。口あたりだってかすかすしてるし」 「それ、そのまま食べるもんとはちがうんじゃねえのか?」 「そうなの。コーンフレークにまぶしたりシチューにまぜたり、フルーツ・ケーキに使ったりするものなのよ。今でこそ一箱ぜんぶ使いきることができるんだけど、高校生になるまではいつもほんのすこし口をつけただけで捨てるはめになってたの」 「高校生になって気がついたのか?」 「先生に教えてもらった」 「先生?」 「地学の先生」 「地学の先生がアイルランドの乾燥りんごの使い方を教えたのか?」 「授業中にじゃないんだけど」  高校生のある日、私は地学の教師に乾燥りんごを渡した。     *  麗しき朝も  静かなる夜も  食べ物、着物を  くださる神様 「アイルランド人の知り合いから送られてくるんやけど、よかったら食べてみてください。おいしいことないけど」 「なんだ、まずいものをくれるっていうの? ひでえなあ」  教師は東京の大学を出てまもない。彼の標準語のことばづかいは生徒の好奇の的であった。 「まあ、ええやんか。理津子ちゃんみたいなビジン女生徒からプレゼントされるの、先生かてうれしいやろ」  理科準備室にいたほかの生徒が言った。決まった顔ぶれではないが、男女あわせて四、五人ほどがいつも準備室には遊びに来ている。 「ビジン? 白川のどこがビジン? ちょっと説明してくれる?」  教師は冗談めかして、おどけたしぐさで言い、ひとりをのぞいて全員が笑った。ひとりだけ笑わなかったのは地学部部員の沙織《さおり》。私をふくむほかの数人より一学年下の生徒である。 「理津子さん、きれいやんか」  沙織は低い声で言った。 「なんだ、おまえは。地学部のくせに美術部の白川にお世辞を言って。お世辞を言うなら地学部の先輩に言ったほうがなにかと得だぞ」  教師がまた冗談を言うと、 「お世辞じゃありません。わたし、理津子さんのこと、入学したときからきれいだと思ってました」  沙織は怒ったように言う。 「じゃ、美術部へ入ってくれたらよかったのに」  私は短い時間内に急いで、もっとも無難なリアクション、をした。 「そやかて、わたしは絵なんかへたやし、それに美術部には入ったらあかんて言われた」 「入ったらあかん、て。そらないわ。だれがそんなことを言いよってん?」  ほかの生徒が訊《き》くと、沙織は私のほうを一瞬見て、 「イワサキヤスシさん」  言うなり、準備室を出ていった。 「へんなやつだなあ。おい、白川、イワサキヤスシってだれ、それ?」 「さあ……」  私はすこし考えたのちに、それが岩崎康のことであることに気づいた。 「あ、小学校のころ近所やった、あの康ちゃんか」  岩崎康のことを忘れていたわけではなかったが、小学校に上がると、彼も小夜子もまったく目立たない生徒になり、クラスも同じにならなかったので話すこともなくなっていった。実家で暮らすようになってからは学校も別になったので顔を合わせることもなかった。それが、高校で、しかも、一学年下の沙織の口から名前が出るなど思いもよらなかったのだ。 「理津子の小学校のときの近所のやつ? そんなやつをなんであいつが知っとんねん」 「ほんまや、へんなのん」 「わかった、あの子、○○中学や。岩崎康って、うちも知ってるわ。○○中学で同級生やったもん。なんや、ぜんぜん勉強できひんし目立たへん子やったさかい、すっかり忘れてしもてたわ。それがようあの子はおぼえてはったなあ」 「ふうん。そやったん……」  しかし、なぜ、岩崎康が沙織に美術部へ入るななどと言ったのだろう。  私は奇妙に思い、次の休み時間に、沙織の教室へ行った。 「理津子さん」  沙織は私の顔を見つけると、席から小走りに駆けてきた。 「渡り廊下へ行こ」  彼女は私の腕をとろうとし、やめて、遠慮がちに袖《そで》を引いた。 「腕、組みたいの?」  私が問うと沙織はみるみる頬を染めた。中学校のころからだろうか、私は下級生の女生徒からよく手紙をもらったり、写真をくれと言われたり、腕を組むことを乞《こ》われたりする。  私は決して、短い髪のいわゆるリーダー格の生徒でも、いわゆる面倒みのいい姐《あね》さん的な生徒でも、いわゆる不良じみた反抗的な生徒でも、つまり、多くの人が想像しがちな「同性から憧《あこが》れられるタイプ」ではない。ただ、きれいな女の子が好きだった。アノコハカワイイ、と、私が思うと十中八九、その女生徒は私に手紙をくれた。 「岩崎康ちゃんと同じ中学やったんやて?」 「うん。まちぶせされたり、何度も電話をかけてこられたり、それでしかたなくて交換ノートをしてたん」 「ふうん」  沙織の顔を私は見つめた。自然と小夜子と比べた。似ていない。だが、美少女である。 「岩崎先輩は、いつも理津子さんの話をしてはった。交換ノートもいつも理津子さんのことやった」 「へえ。私はほとんど忘れてたのに、意外なことやわ」 「あの……」  沙織は言いづらそうにつづけた。 「あの……大嫌いやった、って……」  私は聞くなり大きく笑った。 「そんなことを、わざわざ交換ノートにいつもいつも書いてよこしてたわけ? ほかに書くことがあったやろうに」  岩崎康はまるで変わっていなかったわけだ。私はおかしくてならなかった。 「そやさかい、わたしがこの高校に決まったとき、ぜったい白川理津子と同じクラブには入るな、近寄るな、って」  沙織が話せば話すほど、私はおかしかった。 「理津子さん……」  沙織は私の肩をそっと触った。 「それで、わたし、そんなこと言われたらかえって気になって、入学式の日に理津子さんのクラスを調べて顔を見に行ったんやけど……岩崎先輩が理津子さんのことハゲキャロって言うてはったさかい……ハゲキャロってなんのことかわからへんかったけど、なんか不細工なかんじがするあだ名やったんで、どんな人かと思てたのに、こんなにきれいな人やったさかい、すごいびっくりして……」 「それは、逆作用やんか」  私は笑いをなんとか抑えた。 「ものすごいきれいな人や、って聞かされてたら、きっと不細工やと思《おも》たはずやで」 「ううん。ほんまにきれいやと思たん。ほんまや」 「ああ、久しぶりに剥《は》げキャロなんてことば聞いたわ」 「それ、なんのことなん?」 「うん? それはなあ……」  剥げたキャロローナ人形の話を私は沙織にした。 「なあ、それやったら矢野小夜子ちゃんも知ってるん?」 「ヤノサヨコさん……? ううん。知らへんわ」 「そうか……どっかへ引っ越さはったのかもしれへんなあ。康ちゃんに訊いといて」 「いやや。もうあんな人、会いとうないわ。ちがう高校になってせいせいしてるのに」 「康ちゃんはどこの高校へ行かはったん?」 「△△高校の夜間。バーの手伝いができひんゆうて困ってはった」 「バー?」 「知らはらへんかったん? 岩崎先輩のお母さん、バーをやってはんのやで。『誘惑』っていうバーや」 「誘惑……」  私は深く息を吸い、吐いた。 「誘惑……誘惑のことやったんか」 〈ユーワクへ行ったらサクランボがもらえる〉  康がいつも口にしていたユーワクとは、バーの名前だったのだ。まじめなクリスチャンの寡婦の松子先生が知るはずもない。教えてあげようにも、松子先生は去年、死んでしまった。  始業ベルが鳴った。 「あ、もう行かな。そしたらまたお話ししょうな、——さん」  私が沙織を名字で呼ぶと、彼女は名前で呼んでほしいと言った。私は、そうするから私のことは名字で呼んでほしいと言った。 「かなん」  沙織はうつむいた。 「何で名前で呼んだらあかんの?」 「白川さん、のほうが礼儀正しい」 「そやけど……へだたりがあるやんか」 「へだたりたくない、っていうこと?」  私が訊くと、また沙織の頬《ほお》がみるみる染まった。 「理津子さんはいけずや」  走り去ろうとするので、追いかけて手首を掴《つか》んだ。 「沙織ちゃん」  私が言うと彼女は頬を染めたまま、ほほえんだ。 「理津子さんは先生のことが好きなん?」 「先生? どの先生?」 「地学の先生」 「なんで?」 「先生は理津子さんに一目置いてはるさかい」 「なんでそんなことがわかるの?」 「そう言うてはった」 「一目置いています、って?」 「そうは言わはらへんかったけど……嵯峨野《さがの》へドライブにいっしょに行ったって」 「ドライブ? 嵯峨野の話はしたけど、いっしょにドライブになんか行ってへんて。なんで話ってそんなふうにまちがって伝わるんやろな」  私は彼女の手首を放し、自分の教室へ戻った。     * 「白川へ回せ」  授業中、そう書かれた四つ折りのメモ用紙が回されてきた。同じ美術部の男子生徒からである。 「渡したか?」  紙には一行だけ書いてある。読んで、私は彼から頼まれていたことをすっかり忘れていたことに気づいた。となりのクラスの女生徒に映画のチケットを渡してくれと頼まれていたのだ。  彼は彼女が好きである。だが、そうは言わない。彼女から買ってくれと頼まれたものだと言う。チケットの前はNSPのカセット・テープ、カセット・テープの前は、チャート式の参考書、参考書の前はチャーリー・ブラウンのキーホルダーを、彼は彼女に渡すようにと私に頼んできた。毎回、それぞれに渡す理由がつく。「自然な理由」の文例のような見苦しい理由が。そして、全回とも、私は彼にカセット・テープと参考書とキーホルダーを持ちかえらなければならなかった。  彼に限らず、私はよく男子生徒から「相談」というものを受ける。内容はどれもみな、同じようなものであり、あまりに似ていて、私はだれがだれになにを渡したか、だれがだれを好きだったか、男女の組み合わせを混同してしまいそうになる。 「チケットか……」  ポケットに手を入れると、たしかに彼からあずかった封筒が入ったままである。 (どうせまた受け取ってもらえないのに)  となりのクラスの女生徒は彼のことを嫌ってはいないようすだった。しかし、彼から言われたとおりの「自然な理由」を伝えると、その理由には同意できないという意味のことを言って品物を返すのだ。  自分で行かないからだ、と私は思い、ポケツトのなかで手をくしゃくしゃさせた。  英語の授業であった。教科書が机の上で開いている。 �……neither throw your pearls before the hogs�  例文をしげしげとながめ、チケットは私がもらうのが当然なのだと思った。思ってすぐに怖くなった。 (神様に叱《しか》られる)  骨の髄がそう反応するのだ。 �……neither throw your pearls before the hogs so that they may not trample them under their feet.�  真珠もまた豚に投げるな。向き直ってあなたに噛《か》みついてくるだけだ。  例文を訳し、 (チケットは私がもらっていい)  私は懸命にあらたな考えを出した。金貸しの老婆は殺すのが当然だと考えたロシア人に比べれば、私の罪など羽のように軽いではないか。 「自然な理由」をつくってとなりのクラスの女生徒に近づこうとする腑抜けからチケットをだましとるくらい、何を咎《とが》められるというのだ。 (無傷のまま快楽を得ようとするような者にこそ罰はくだるべきなんや)  私はチケットをポケットのなかでにぎりしめた。 「渡したけど、行くかどうかはわかりません、って」  ノートにそうメモすると、私は四つ折りにして彼の席へ回してもらった。 (六限はカットや。今日中にこのチケットを使《つ》こてしもたろ)  私は五限終了のチャイムが鳴るなり、駅まで走り、電車に乗って繁華街まで映画を見に行った。車内で封筒を開けるとチケットには私が嫌いな女優の写真が映っていた。     *  自動販売機でコーラを買っていると、 「おい、さぼったんじゃないだろうな」  うしろから肩をたたかれた。 「…………」  驚いて声が出ない。肩をたたいたのは地学の教師である。 「なんだ、俺《おれ》の顔になんかついてるか?」  私は表情に乏しい、のだと思う。とりわけ驚きや怒り、うれしさといった明瞭《めいりよう》な感情がわいたときほど、無表情になる。身体《からだ》もあまり動かなくなるし、声も出なくなる。 「驚いたさかい」 「そうか? 驚いた、って顔じゃなかったぞ。じっと俺の顔を観察してるから」  教師と私の身長はほぼ同じである。彼の顔は私の顔の正面だ。 「六限はカットやったんです」 「そうか。ぐうぜんだな。ひとりか?」 「はい」 「俺もそうだ。だれかほかの先生でもさそおうかとも思ったんだが、あの学校に映画なんか見る先生いないってことが、この一年でよくわかったよ」 「生徒にかて、ほとんどいはりません」 「いはりません、って、いない、って意味でよかったんだよな」 「あ、はい。ほとんどいません」 「そうだな。でも、きみがいたじゃないか」 「今日は特別です」 「しかし、まさか生徒のなかにこういう哲学的な映画を見るやつがいるとはな」 「チケット、もろたんです」  嘘《うそ》をついている気がしない。電車の、あるいは繁華街の、ざわざわしたものは私をとても落ちつかせた。チケットは私が使うべきなのだ。  客席ドアが開き、前回の客が出てきた。教師と私はなかに入った。 「どこにすわる?」  教師が訊《き》いた。 「え?」 「前のほう? きみ、目、悪かったっけ?」 「……はあ、ふつうですけど……。じゃ」  私は自分のすわりたい席がべつの客にとられないうちにと、さっさと歩いて行った。  映画が終わると、教師は私の席に来た。 「俺、ロビーでなにか気にさわるようなこと言った?」 「いいえ、言わはりません……あ、おっしゃいませんでした」 「なら、なんで、別々にすわったの?」 「なんで別々に、て?」  私は奇妙な心地で教師の顔を見ていた。 「学校の先生がとなりにいると窮屈だから?」 「……なんのとなりに?」 「なんのとなりって、席だよ」 「席って?」 「だから、この席だよ、この席のとなり」 「この席のとなりがどうかしました?」 「だから、なんで俺がとなりにすわるのがいやだったのか、って訊いてるんだよ」  教師の質問の意味がやっと私はわかり、 「先生、映画をひとりで見ないんですか?」  と、言うと、今度は教師が奇妙な顔をした。短くないあいだ、黙っていた。 「きみはいつもひとりで映画を見るのか?」 「……あっ」  私は教師と話していて、美術部の男子生徒はとなりのクラスの女生徒といっしょに映画に行こうとしていたのだと悟った。私はチケットも、カセット・テープや参考書と同じようにひとりで使うものとしか考えつかないでいた。彼女はひとりで映画を見、彼もひとりで見、そして後日にでも映画の話をしようとしているのだとしか考えつかなかった。 「映画ってだれかといっしょに見ます?」  小声で教師に尋ねた。 「まあ、いろいろあるけど……女の子はだいたいそうなんじゃないのか?」 (……。チケットをどうしよう)  困ったな、と私は思った。 「まあ、いい。それより、おごってやるよ、ケーキでも。晩めしでもいいぞ」  腕時計を見ると五時半である。 「あっ」  私は思わず叫んだ。 「家に電話しないと……」  門限は六時である。今から急いで帰っても三十分の遅刻になる。父親と母親は仕事のため六時を過ぎても帰ってこないことがあるのだが、帰ってくることもある。そのときに私がいないと二人は病的に私を疑う。  六時を過ぎて外にいるのは不道徳で堕落するようなことをしていたにちがいないと父親は言い、夜遅く帰るのは芸能人になりたいと思っているにちがいない。芸能界に入ることはよくないと母親は言う。  意味がわからないが、たぶん、三人とも長いあいだ別々に暮らしていたし、今だって別々に暮らしているようなものだから、必要以上に娘を心配するのだろうと解釈していた。何を言ってるのよ、と怒鳴ることは私にとって果てしなく疲弊《ひへい》する行為であった。よその家で長いあいだ暮らしていて学んだこと、それは、よその家でうまくやっていくには、遠慮していないといけないということである。 「どうしよう。間に合わへん」  門限のことを教師に言うと、 「心配するな。俺が電話してあげるよ。教師といっしょなら親御さんだって安心するだろう」  映画館を出ると、教師と私は公衆電話ボックスに入った。ダイヤルを回す私の指は緊張してこわばった。  家には父親がいて、私は学校から頼まれて授業に使う資料を河原町まで買いにきたと言った。教師はすぐに受話器をとってくれ、自分の名とともに、 「生徒に訊いてみないとわからない点もあると思いましたので、頼んだんです。お礼に夕食をごちそうしますよ。ええ、ご自宅まで送ります、もちろんです」  と、たいそう愛想よく言ってくれた。 「やさしそうなお父さんじゃないか。あんなに緊張することないのに」 「それは先生が他人やさかいにや。他人が他人に対してする緊張は規則性があるけど、血縁のある他人に対する緊張は、困る。規則性がないさかい、すごい困ってしまう」  私の全身は我知らずに震えていた。 「え?」  いぶかしそうな表情の教師の顔が真正面にあった。 「血縁のある他人って、どういうことかな……」  教師はすこしほほえんでみせてくれた。落ちつかせようとしてくれているのだと、私は思い、自分の不用意な告白の処理にあぐねた。 「こんなこと聞くの、どうかと思うんだけどさ、きみ、もしかして養女なの?」 「……いいえ」 「厳しい家なんだね」 「……いいえ」 「そう」 「いいえ、みんなが言うような厳しい家ではありません。みんなが言わはるようなんとはちがう」 「そう」 「世話になってるんやさかい、食べ物、着物を世話になってるんやさかい、きちんとせんとあかん……」 「そう。そうだね。まったく、そうだね」  教師の口角が上がり、霧のなかの三日月のようなかたちになる。 「えらいな、白川は」  えらいなあ、理津子ちゃん。小菅さんや堀川さんや所沢さんや高木さんや、松子先生の声が聞こえてくるようである。 「なに食べたい? なに食べようか」  教師は気をつかってくれたのだろう、語調を変えた。 「ヒツジ」 「ヒツジ? 白川、ヒツジなんか好きなのか?」  コートネイさんがよく作ってくれた料理はヒツジとじゃがいもを煮込んだものだった。そういえばずっとヒツジを食べていない。 「ヒツジかあ。ジンギスカンの店ってどこにあるんだろう」  教師はボックスから通りを見た。 「ジンギスカンとちがう」 「ちがうの? だってヒツジってったら、ジンギスカンのほかになにがあるの?」 「ううん。やっぱりヒツジと違《ち》ごたかていいわ。なんでもいい」 「じゃ、なんか適当なとこに入ろう」  教師と私はボックスから出て十メートルほどの店でカレーライスを食べた。  箸《はし》をつける前に、私が手をあわせて、 「いただきます」  と、言うと、 「えらいんだな、白川は」  と、また教師は言った。  コートネイさんのところや『聖母の岸保育園』では食事の前にお祈りをしていた。実家に越した日からしなくなった。 「えらいことあらへん……」  歯切れ悪く私は言い、 「そうだな、あたりまえのことだもんな」  健《すこ》やかに教師はほほえんだ。  明朗な笑顔が私に油断させた。油断しなければ彼の質問に真正直には決して答えなかったと思う。 「白川は好きなヤツがいる?」  そう訊《き》かれて、 「×××××」  ずいぶんと長いあいだ考えてから、私はある映画俳優の名前を答えた。  告解だった。  顔の皮がつっぱってゆくのが自分でわかった。皮が動かなくなっている。うつむこうとしたが、首も動かせない。手も動かせない。動悸《どうき》だけが激しくなり、判決を言い渡されようとしている犯罪者のような気分になった。 「その人もアイルランド人?」 「……ドイツ人」  消え入りそうな声で言った。 「ドイツ人? どこで知り合ったの? アイルランド人の友だち?」  訊かれても声が出ない。自分の心臓の鼓動がどくどくと耳元でした。 「×××××ってどっかで聞いたような……あ、なんだ、俳優じゃないか。将校の役なんかをよく演るやつだろ」  教師は笑った。 「好きなヤツいるか、ってそういう意味の質問じゃないよ。ったく、わかってるくせに。うまくよけたなあ」  よけていない。彼の質問にもっとも正確に私は答えたつもりだった。 「映画、よく見てるんだなあ。×××××が将校の役で、最後に自殺する映画あっただろ、あれ見たよ。きれいな映画だったよな。きみくらいの年のころにはよくあることだよ。悲恋映画のなかの、遠い世界に住んでいるような、そんな存在に憧《あこが》れる。恋愛にドロドロした汚いものを持ち込みたくない意識が強いんだろうね——」  教師は思春期の心理について話しはじめ、私はようやく首を動かすことができた。うつむき、自分の羞恥《しゆうち》を悟られぬようにした。 「——ほら、地学部の沙織、今日、きみのこときれいだって言った、あの子。あの子もきみみたいにプラトニック・ラブ派なんだよな。でも、そのうち、自然とわかるんだよ、憧れと恋はちがう、ってね。タカラヅカには恋はないんだってことがね——」  教師は思春期の心理について話しつづける。  彼のようになりたいと私は思った。彼がうらやましかった。 「——だからさ、恋に恋する年ごろっていうのがあるんだよ」  彼のようになりたい。そしたら恋に恋することができる。恋に恋するような清純な心を持ちたい。  私はうつむいたまま、彼の裸体を想像した。彼が裸の沙織を抱いているところを想像した。だが、沙織は彼では幸せにはならないだろう。 「今日、もらった乾燥りんごだけどさ」  ねえ、とテーブルを指で打たれて、私は顔をあげた。 「あれ、カレーにふりかけたらうまいだろうね。シチュー作るときにいっしょに煮込んだりしてもよさそうだね」  教師に言われて、私ははじめて乾燥りんごの用途を知った。     * 「女が好きか?」  大西は、いわしの焼き身を箸でほぐしながら言った。 「べつに」  私は、卑怯《ひきよう》な答えかたをした。べつに。さあ。なんと卑怯な答えかただろう。ほんとうはわかっているくせに。  自分の卑怯さを恥じ、大西の皿の上で解体されていく大ぶりのいわしを見た。  焼けたいわしのうろこはぱりりとはがれ、うす茶色の焼き身からあぶらが出ている。醤油《しようゆ》がかけられ、こんもりとした魚肉が大西のくちびるに吸い込まれる。  大西の口は大きく、上くちびると下くちびるの厚さの比率が一対三。笑ったり大きく口を開けたときに下の歯ではなく上の歯と歯茎が見える。下の歯にはやや列を乱している部分があるが、上の前歯は隙間《すきま》なく整列しており、差し歯がなく、歯茎には色素の沈着がない。白色にマゼンダ・ピンクをごく少量混ぜ、もっと少量の黄色をまぜて大量の水で溶くとできそうなみずみずしく愛らしい色のひきしまった歯茎に、丸みをおびた粒ぞろいの白色の歯が嵌《は》めこまれている。  彼の口に、焼いたいわしの魚肉が徐々に挿入されてゆくと、魚肉からにじみでたあぶらと醤油がくちびるを濡《ぬ》らした。  すぐにつづいて彼はいわしを口に入れ、くちびるの端から粘った液体が顎《あご》に向けて、垂れた。 「あんたもいわしを食べんか」 「食べる」  私は大西の皿に箸をのばした。細長くほぐした魚肉には内臓がいくぶん混じっており、やや苦い味と小骨が私の舌を撫《な》でた。 「たまごを買いにいってるか?」 「いいえ、最近、あの農家の人が来ないの」 「たまごを買いにいく以外は駅前になにを買いにいく?」 「牛乳とか薬とか」 「絵の具や紙は?」 「画材屋さんが決まってて、最近はファックス注文。ファックスって、他人と他人を会わせなくする機械だわ」  仕事の事務連絡はほとんどがファックスである。出来上がった絵はバイク便サービスが持っていく。 「私、ほとんど人に会わない暮らしだわ」 「そんなはずないだろ。昨日も言ったけど。テレビはまれかもしらんが、雑誌の取材《インタビユー》とかいうやつはしょっちゅう受けるんだろ」 「受ける……」 「じゃあ、人に会うじゃないか」 「取材って一時間くらいよ。それが月に二本くらい。月に二時間しか人と会わない」 「そうか、そうだな。それくらいか」  言われてみればそのとおりだと、大西はいわしを口に入れた。 「会社員じゃないもんな。だれとも会わない日のほうがずっと多くなるな」  私がだれかに会うためには必ず「待ち合わせ」をしなければならない。会社のエレベーターで、あるいは玄関で、会社のある街の店先で、「ふと」顔を合わせるということはない。「ふと」顔を合わせ「ふと」いっしょに食事をしたり、「ふと」いっしょに電車に乗ったりすることはない。だれかに会うためには必ず「待ち合わせ」をしなくてはならない。 「そして、会っても、待ち合わせて会うと、そこだけ独立した時間になって、独立したままそれで終わりなの」  二週間で七回も同一人物と食事をしているということは、私にとって、画期的なことである。 「なにか御礼をしなくてはなりません」 「御礼ね……」  大西は箸をとめた。大西の首が回り、私の皿に向いた。それから私の手に向き、私の顔に向いた。  私も大西のほうを向いた。すこしの沈黙した「間」があった。そして、思い出した。 「学生時代、水色の洋服を友人への御礼にしたことがある」  私は言った。以前にも同じような「間」があったのだ。 「水色の洋服?」 「ええ。上京してデザイン学校に行ってたころ。デザイン学校の近くにある大学の学生と知り合いになったの」  菊井哲也《きくいてつや》。彼が生理ナプキンのCMの話を持ってきた広告代理店社員である。  第三章  わがままを捨てて  人々を愛し  その日のつとめを  なさしめたまえや  にぎやかだが落ちついた店だった。明るすぎもせず、暗すぎもしない。学生や若い会社員が多い店である。  菊井と私はテーブルをはさんですわった。私のソファは壁に沿って長く、となりの席までつづいている。  私は何度も何度も菊井に礼を言った。彼はデザイン学校の学園祭で私の絵を買ってくれたのだった。 「ディスプレイしてあるなかで、まっさきに目に入った。買ってくれ、ってかんじでさ」  菊井は会話のテンポが速く、語彙《ごい》が豊富で、私は彼の話を聞いているのがメリーゴーランドに乗っているようにたのしかった。 「×××××って俳優、俺《おれ》、知らないなあ」  私たちはピスタチオを食べ、ビールを飲んでいた。 「将校の役が多いの。骨が重そうで軍服が似合うの」  ピスタチオの殻が灰皿に積もってゆく。 「菊井くんはだれのファンだっけ?」 「俺? 俺はもうファンなんていないよ。映画やテレビのなかのコより、実物の女の子がいい」  菊井の首が、私の前のピスタチオの皿に向き、それから私の手に向き、顔に向いた。 「自分のそばにいる女の子がいい」  彼は言い、「間」を置いてから、つづけた。 「あの子のような」  菊井の視線がとなりの席に向いている。視線で私にも見るようにと言った。  私は時計を見るふりをしてとなりの席を見た。 「ほら、水色の服を着た、セミロングの子」  菊井は私の耳に口を近づけた。  となりの席は女二人である。二人とも水色の洋服を着ている。二人とも髪は肩までくらいの長さである。姉妹かと思えるほど顔だちも似ている。二人とも二十一、二である。二人ともほっそりしている。  だが、菊井の指したのがどちらかは、私にはすぐにわかった。  同じ水色でも、片方はワンピース、もう片方は水色のシャツにジーンズである。 「壁がわの子のほう?」  私は菊井の耳に口を寄せた。壁がわのジーンズのほうが皮膚を形成する細胞膜が厚い。そのためファンデーションを塗った肌の表面が均一である。 「ジーンズをはいてるほうの子でしょう。さっぱりしたかんじの」  ほんとうは、ワンピースのほうがさっぱりしていて、ジーンズのほうがしっとりしている、と、私は思った。しっとりとした色気がある。つまり菊井にとってジーンズのほうが魅力的であり、それを、 「さっぱり」  という、無難な表現に変えて言っているのだ。 「さっぱりとしたかわいい人ね」 「やっぱり女性から見てもそう思う?」 「うん」  事実、ジーンズはかわいい顔だちをしていたし、好感を持った。が、ワンピースのほうにも私は同時に好感を持った。 「菊井くん、さっぱりしたタイプが好みなのね」 「ま、そうかな」  菊井はたのしそうだった。水色のジーンズの女性がとなりにすわったなら、もっと彼はたのしいだろうと、私は思った。 「呼んであげようか」 「え?」 「あの子、呼んであげる」 「呼んであげる、って?」 「そばへ呼んであげる」  私はジーンズの彼女と交代しなくてはならぬと思った。菊井に絵を買ってもらった御礼をせねばならぬと思った。義務《つとめ》だと思った。  私が立ち上がりかけると、菊井は袖《そで》を引いた。 「ちょっと、何する気?」  菊井に袖を引かれ、私はいったんすわった。 「あの子、かわいいからこっちの席に呼んできてあげる」 「ええ?」  菊井は驚いている。しかし、表情に期待も混じっていた。期待に応《こた》えてあげるべきである。謝礼をせねばならない。絵を買ってくれた菊井へ、彼にとって価値のある女をそばに連れてくる。 「待ってて、あの子にさりげなく話しかけて、こっちへ呼んできてあげるね」  私は洗面所にたち、戻りぎわに、まず、ジーンズではなく、ワンピースにぶつかった。 「ごめんなさい」  私はワンピースの目をじっと見た。近くで見るとワンピースの肌はきめ細かく、耳たぶが酒のために朱色になっている。酔ったふりをして私が彼女の肩に軽く手を置くと、いっそう耳たぶの朱色が濃くなる。  私がほほえむと、ワンピースもはにかんでほほえんだ。 「二人だけ? よかったらいっしょに飲まない? 人数、多いほうがたのしいし」  簡単だった。ワンピースはすぐに私のとなりにすわり、ワンピースが席を移動するとジーンズも席をたって、結果、彼女は菊井のとなりにすわった。  ジーンズは私と同じデザイン学校の生徒だった。そのことで私たちは急速にうちとけ、話がはずんだ。 「あたし、最初からそうじゃないかなあ、って思ってたのよ。学校で見たような気がするもん」 「こんどみんなでテニスをしようよ。俺の同級生も呼ぶからさ」  ピスタチオの殼にピーナッツの殼が加わって灰皿に山積みになってゆく。 「残念だわ。わたし明日、戻るから」  ワンピースはジーンズの親戚《しんせき》で、東京に遊びに来ていたが、明日、山口県に帰るのだという。 「だから今夜はもう早めに寝ないと」  ワンピースが席をたち、私も彼女につづいてたった。ジーンズと菊井をふたり店に残そうとして。 「帰り道、気をつけてね」  私が地下鉄の改札でワンピースに言うと、彼女は急に私に抱きついた。しがみつくように抱きつき、キスをした。そして階段を駆け降りていった。     *  水色のジーンズをはいていた佐代子を、私は更衣室の前で待っていた。  ニセアカシアの葉が濡《ぬ》れている。丸みがかった愛嬌《あいきよう》のある葉を、私はラケットでゆすぶった。雨のしずくが額にかかり、ラケットにもかかった。  軽く足踏みをしてみた。借り物のテニス・シューズはまだ足になじんでいない。  靴を借りなければならないことになるとは、予定外だった。平素からはきなれたバスケット・シューズのままプレイできると思っていたのだ。 「あら」  佐代子が更衣室から出てきた。 「理津子、着替えなかったの?」  佐代子はテニス用の短いワンピースを着ている。 「着替えたよ」  私はスウェット・パンツを引っ張って見せた。パンツの上は、家から出てきたままのバスケット・トレーナーである。 「ジーンズをスウェットに替えただけ? だから早かったのね」  白い短いテニスウェアは佐代子によく似合った。ひきしまった細い腕の小麦色が曇った景色を明るくする。  サヨコ。字はちがうが、その名の音は小夜子を思い出させる。 「ねえ、ずっと前に会った水色のワンピースを着ていた女の子がいたでしょう? 親戚だっていう」 「親戚? 私の?」 「ほら、山口県に帰るって言ってた」 「ああ、理津子とはじめて会った日にいっしょだった」 「そうそう。あの人、元気?」 「さあ。元気なんじゃない。あんまり行き来のない親戚なのよ。東京見物に来たからあの日はたまたまいっしょにいたんだけど」 「そう」 「行こうよ、男性軍をあんまり待たせては悪いわ」  佐代子は私を促し、私ははきなれない借り物の靴で地面を踏みながら、スウェット・パンツが、ぶかぶか、ぶかぶかするのを今までになく感じた。  コートへ出るまでの通路は、片面がミラーガラスで、佐代子の敏捷《びんしよう》そうな肢体に比較すると私は鉄人28号のように映った。 「理津子は京都の短大にいたときはテニス部だったんでしょう?」 「テニス部じゃない。テニス同好会」 「同好会でも、きっとうまいでしょう。いやだな、あたし、ヘタなのに」 「全然熱心な会員じゃなかったの。サボってばかりでちっとも練習しなかったの」 「でも……」 「佐代子のことは菊井くんがサポートしてくれるから平気よ」  私たちがコートに出ると、菊井と栗本《くりもと》が手をふった。栗本は菊井と同じ大学の同級生である。 「遅いよ。どうせまた、りっちゃんが待たせたんだろう」  栗本が言った。 「りっちゃんがコート走りまわっても大丈夫かなあ。コート、湿って、土がやわらかくなってるからなあ。重量級に耐えられるかどうか心配だ」 「金とってテニスさせるところなんだもん。コートが穴だらけになったって、あとしまつなんかはここの人のお仕事よ」  私はラケットのグリップを右のてのひらに立て、皿回しの芸人がするように均衡をとった。 「ちょっと、こっちにも載せてみて」  左手を栗本に差し出す。栗本は自分のラケットを私のてのひらに載せた。うまく載らなかった。ラケットは両方とも地面に落ちた。 「馬鹿なことやってないで、早く、やろうぜ」  菊井がラケットを拾う。 「俺《おれ》は佐代子と組む。栗本はりっちゃんと」  菊井と佐代子はネットの向こう側に歩いて行った。 「馬鹿ね、さっさと組まないからよ」  私は栗本に言った。栗本は正直な苦笑いを浮かべた。 「あとで代わってあげるからね」 「いいよ」 「じゃあ、ごはん食べるときは佐代子のとなりになるようにはからってあげる」  栗本を安心させてから、私はサーブを打った。  菊井はらくに受け、ボールは私に返ってきた。私は佐代子のほうへ打った。佐代子は受けられない。得点が入る。  私はまたサーブを打った。菊井が受け、私が受け、佐代子が受けられない。得点が入る。  またサーブを打ち、菊井が受け、私が受け、佐代子が受けられない。得点が入る。  くりかえしだった。 「俺にも打たせてよ」  栗本がサーブを代わった。佐代子のほうへゆるいサーブを打った。佐代子はさらにゆるいボールを私に返した。私は力いっぱい強いボールを菊井へ打った。  だが、左ききの私が打つと、ボールは佐代子の顔の真正面へ返ってしまう。佐代子は受けられない。得点が入る。  栗本はまたゆるいサーブを佐代子のほうへ打った。佐代子は弱々しいボールを私に返し、私は力いっぱい強いボールを菊井へ打とうとし、左ききのために佐代子の顔の真正面へボールを返してしまう。得点が入る。  くりかえしだった。  栗本が怒りだすのではないかと、私は心配になった。  彼がゆるいサーブを打ち、佐代子が弱々しいボールを返してきたとき、私は咄嗟《とつさ》にラケットを右に持ち替えた。私は右手でボールを打った。菊井が受け、栗本が受け、佐代子が受け、私が受け、コートにはボールの音が弾んだ。  菊井が笑い、佐代子が笑い、栗本が笑っている。私が利き腕を使わぬなら、みんなで笑える。私はずっと右でラケットを持ちつづけた。  コートを借りた時間を使い切り、私たちはテニスをやめた。 「やっぱり理津子はうまかったわ。おかげであたしと菊井くんチームは完敗ね」  佐代子の額で汗が光っている。おかげで完敗ね、と、そう言うときの口許が小さくあどけない。さくらんぼの実ならば一つしか入らないような口である。 「りっちゃんはうまいけど、しかし、フォームががたがただな。腕を力いっぱいふりあげてるから、なんかこう恐ろしげだったよ」 「明日、肩が痛くなるんじゃないの? サロンパス貼《は》っといたほうがいいよ」  菊井と栗本に注意され、 「うん、そうする」  と、私は言った。二人とも私が右で打っていたことに気づいていなかった。 「じゃあ、シャワーと着替えが済んだらフロントに行くから待ってて」  佐代子は私の右腕をとった。すこし痛みが走り、姿勢を崩した。腰がネット・ポールにぶつかった。 「おいおい、コートの備品をこわしてくれるなよ」  三人は笑った。私も笑おうとしたが、右肩の関節とポールにぶつかった腰の骨が痛く、うまく笑えなかった。     *  髪を乾かしながら、鏡の中で佐代子が身体《からだ》を拭《ふ》いているのを見ていた。  傷つきやすそうな。繊細な。鋭敏な。小さな。ひきしまった。たおやかな。あえかな。琥珀《こはく》色のガラスのような。これらどの形容詞も彼女の裸体にそぐう。  私は鏡から目を逸らせ、うつむいて髪を乾かした。いや、髪を乾かすふりをした。  ドライヤーは頬《ほお》に当てられている。不意に頬を伝ってきた滴《しずく》を乾かそうとした。自分の肉体がなぜこんな反応を示すのか、私はたじろいだ。  わがままを捨てて人々を愛し、その日のつとめをなさしめたまえや。賛美歌『麗しき朝も』の二番はこう歌詞がつづく。 「どうしたの? 理津子。気分でも悪いの?」 「いいえ」 「ほんと?」  バスタオルを巻きつけただけの佐代子が私のそばにきた。 「熱があったりする?」  佐代子は私の額をさわろうとし、 「ないの」  私は彼女の手をふりはらおうとして手首をにぎった。  にぎってから、すぐにはなし、私は後ずさりした。彼女の手首のそのか細さに我が身を恥じたのだ。 「どうしたの?」 「いいえ」  私は自分の手を身体のうしろに隠した。 「枝毛があるかな、って見てただけ」 「なんだ。泣いてたみたいだったから、どうしたのかと思った」 「私が?」  私はドライヤーを洗面台に置いて、顔を洗った。 「私は泣かないわ」  タオルで顔を拭いた。 「さあ、佐代子、できるだけ早くしたくしてね。菊井くんと栗本くん、待ちくたびれるから」 「うん、わかった」  佐代子は服を着る。服を着ると髪を乾かすロール・ブラシを使って器用に髪にくせをつける。髪が乾くと化粧をする。ファンデーションを塗り、アイシャドーを塗り、マスカラを塗り、アイライナーを引き、口紅を塗る。 「理津子は着替えないの?」  鏡の中の佐代子が鏡の中の私を見た。 「着替えたわ」 「それ? さっきテニスしてたときと同じトレーナーじゃない」 「似てるけどちがう」 「ふうん。トレーナーって、そういうふうにうんと大きいものを着るとうまく着こなせるのね。今度あたしもそういう着方をしてみようっと」 「佐代子はきゃしゃだからこんな着方をしなくていいんじゃない?」  頑丈な骨組みを気づかれませんように。私はいつもぶかぶかの服で体型を隠した。 「きゃしゃ? あたしが? あたしのどこがきゃしゃなのよ」  佐代子はパフを持った手をふった。 「あたし、バストが88あるのよ。ちょっとぴったりしたシャツやブラウスを着るといやらしくなるから困るの」 「そんなものかな」  私は自分の胸に肉の房が乗っている状態を想像しようとした。  半球形をした佐代子の乳房は胸部に乗っているように見え、淑やかである。円錐形を大胸筋が引き上げているように見え、淑やかさを欠く。 〈鎧《よろい》の胸〉 〈中世の騎士〉  中学生のころ、ひとまわり大きいサイズのセーラー服を着ていた私は男子生徒からからかわれた。美術の教科書に、武具をつけた中世の騎士の絵が載っていて、 〈白川の胸は中世の騎士の胸や〉  だれかが言いだしたのだった。  なるほど、と私は思った。裏切るような速度で膨張してくる自分の乳房の肉がいやで、ひとまわり大きなサイズの制服を選んでいた。もたついた厚い布地は見苦しいのに、チュウセイ ノ キシ ということばは美しい。  鎧の胸。中世の騎士。はやしたてても私が表情を変えなかったせいか、すぐに男子生徒はからかわなくなった。 「佐代子ははじめてブラジャーをつけたのいつだった?」 「中学に入った年。制服やなんか用意するときにママが買ってくれた。あんたもそろそろしないとだめよ、って」 「ふうん」  私の母親はブラジャーのことを忘れていたのだろうか。彼女は一度もブラジャーについて私に注意したり尋ねたりしなかった。 「たいていの女の子はそれぐらいの年のころじゃないの? 理津子だってそんなもんだったでしょ」 「う、うん……」  私はブラジャーが欲しかったのだが、母親に打ち明けられなかった。ブラジャーに限らず、たいていのものを、私は両親に買ってくれと打ち明けられなかった。言えば買ってくれただろうに。 「私ね、はじめてのブラジャーは盗んだの」 「えーっ。ほんとう?」  佐代子は化粧する手をとめて、鏡の中の私ではなく実像の私を見た。 「うん」 「家が貧しかったわけじゃないでしょう? スリルで?」 「どうしてなんだろうな。それしか方法が浮かばなかったの」  松子先生にもブラジャーの相談ができなかった。もしかしたらコートネイさんがまだ日本にいたなら、彼になら言えたかもしれない。しかし、彼はそのときはもうアイルランドに帰ってしまっていた。 「うちね、おこづかいをそんなにもらうシステムになってなかったの。学用品とか、学校で必要なものとか、それから、たまにお昼ごはんをお弁当じゃなくてパンにするときとかそういうときにそのつどお金をもらうシステムだったの」 「まったくおこづかいをもらってなかったの?」 「ううん。少しはもらうの。映画雑誌が一冊買えるくらいの額」  だから、雑誌を買わずにいればブラジャーは買えたのだが、そうはしなかった。 「商店街を歩いていたら、自転車に乗った人が籠《かご》から袋を一個落としたのね。落ちましたよ、って言ったんだけど、さあっと行ってしまって、交番へ届けようと思ったら、その袋は○○洋品店の袋だったの」  それは住んでいた町にある唯一のしゃれた洋品店だった。 「そっと袋を開けたら淡いピンクのブラジャーが二つ入っていて……」 「それ、もらっちゃったわけね」 「そうなの」 「それは盗んだんじゃないわよ。落としたほうが悪いのよ」  佐代子は笑って化粧をつづけた。 「うん。私もそう思ったの」  袋を持った自分を諭した。  これはブラジャーが欲しいとどうしても親に言えずに困っている娘に神様がプレゼントしてくれたものです、と。「今日の暗唱文」のように。 「でも、自分で試着した品物じゃなかったから着心地は悪かったわ」  おしつぶされるような着心地だった。しかし、私は高校を卒業するまでの六年間、ずっとこの盗んだ二個のブラジャーを洗濯して交代で使いつづけた。制服の布地は厚いのでブラジャーをつけないこともままあった。 「短大に入って京都市内でバイトできるようになってブラジャーが買えるのがうれしかったの」 「いやあだ。でも、そういや、理津子って今もよく下着を買うわよね」 「怨念《おんねん》かしら」  私が言うと、佐代子は、私が盗んだブラジャーの色のような淡いピンクの口紅に染めた唇でよく笑った。  フロントに行くと、 「遅い。なにやってたんだよ。いくらりっちゃんの身体《からだ》が洗う面積が大きいからって、遅すぎるよ」  栗本が言った。 「ごめんごめん。お風呂《ふろ》につかったらお湯があふれてしまったから、給湯しなおしてたのよ」  私は冗談を返した。 「そうかあ。そりゃあ、たいへんだっただろうなあ。佐代ちゃん、寒かっただろう、裸で待ってるあいだ。俺《おれ》が温めてあげられるとよかったのになあ」  栗本は佐代子の肩に手を置いた。佐代子ははいはいといったふうに彼の手をどけ、 「ねえ、ここで写真を撮らない?」  鞄《かばん》からカメラを取り出した。 「フィルムが少しあまってるの。使ってしまおうと思って」 「じゃあ、私がシャッターを押してあげる」  私は佐代子からカメラを受け取って三人を並ばせた。 「菊井くんと栗本くん、せっかく撮るんだから佐代子の肩に手をまわしなさいよ」  私はファインダーをのぞく。  二人の男はいくぶんはしゃいで互いに手をのばす。顔や首や足を動かす。姿勢が定まらない。  佐代子はじっとしている。  じっと動かない。  佐代子の顔はじっと動かない。  顔は微笑している。  微笑した顔はまばたきもせず、じっと動かない。 「あ」  私は一瞬、カメラを腰までおろした。佐代子の顔は動かない。 「あ、あの……撮るよ」  歯切れ悪く私は言い、シャッターを押した。カメラをおろす。  佐代子の顔が動いた。 「もう一枚」  佐代子がひとさし指をたてた。私はふたたびファインダーをのぞいた。  菊井と栗本はまた姿勢も表情も定まらない。佐代子の顔はまた動かなくなる。微笑した顔は私がシャッターを押すまで動くことがなかった。三枚目も四枚目もそうだった。 「もしかしたらブレてたかもしれない」  シャッターを押すとき、自分の指が萎縮《いしゆく》したような気がする。 「平気よ。オートフォーカスなんだから」 「今度はりっちゃんも入りなよ」  栗本が私からカメラを取った。  私は佐代子と菊井のうしろに立った。 (チーズ)  チーズ。チーズ。私は口を固く閉じたまま頭でだけ唱えた。微笑したままの顔でシャッターを待つことは許されないと思った。卑怯《ひきよう》な行為に思った。汚い手段に思った。 「ああ、テニスしたら喉《のど》がかわいた」 「なんか飲んでこうぜ」  フロントのわきにカフェテリアがある。栗本と菊井につづいて佐代子と私も、カフェテリアの白い椅子《いす》にこしかけた。 「なんかどこ行ってもこの曲だな」  スピーカーのほうを見てから栗本と私はアイスコーヒーを、菊井はレモンティーを、そして佐代子はプリン・ア・ラ・モードを注文した。  金魚鉢のような大きなガラス容器に盛られたプリンとパイナップルとメロンと容器からあふれそうな生クリームが、佐代子の小さな口にすべて収まっていくのを、私は音楽を聞きながらぼんやりと見ていた。 「今度コンサートに行こうか、このグループの」  栗本が佐代子を誘っている。 「チケット入るかもしんないぜ」  菊井も参加する。  私は二人の男を比較した。 (どちらが佐代子に似合うだろう)  栗本も菊井もシルエットが似ている。二人とも180センチくらいの中肉中背。佐代子は156センチだから身長差は24センチである。 (16センチというのは何だったかな)  なにかの本で、ハリウッドが規定した男女の理想的な身長差は16センチだと読んだことがあった。ハイヒールをはいた上で16センチである。  ハイヒールというのは7、8センチあるから、裸足になったときのほんとうの身長差は24センチほどになる。 (ぴったりだ)  なんとなく私は重要な発見をしたような気がして三人をしげしげと見つめた。  24センチの身長差を理想の美と規定した根拠はなににあるのだろうか。それくらいの体格の差があれば、男は女を抱き上げて寝室まで攫《さら》ってゆけるということだろうか。 (たぶん、そんなところだろう。ハリウッドの規定だから)  だからこそ、この規定を壊した男女の組み合わせも、ハリウッドの武勇伝となる。 (すらりとした長身の女は、成り上がる小男にゴージャスなステイタスを贈る)  鉄人ではなく、すらりとした長身ならば。 「理津子、なにをじろじろ見てるの?」  佐代子に言われ、私は視線をテーブルのアイスコーヒーに移した。 「いやべつに……」 「へんな奴《やつ》だな、にやにやして。なにかおもしろいことでも思い出したの?」  人間は社会を築いたが牡と牝の原理は動物とさして変わることはない。恋愛とは牡と牝の結合である。  勃起《ぼつき》するかしないかそれが恋愛だ。ここに男がいて、娼婦《しようふ》は抱けるがマリアは抱けない。ならば、彼は娼婦に恋しているのだ。瞬間的で浅薄な恋愛と評されようとも。たとえマリアを敬愛していようとも。彼にとって女はマリアではなく、娼婦のほうなのだ。娼婦を買うことの悪、マリアの正しさはまったく別の問題である。 「ううん。おもしろいこと発見したの」 「なに?」  ♂として♀をなびかせる能力がなければ、♀として♂をなびかせる能力がなければ、その存在は牡でも牝でもない。社会である。 「人間社会を守る鉄人28号はぎゅーんと飛んでいく」 「なに、それ?」 「へんなの」  私たちは笑いながらカフェテリアを出た。 「七時だ。めし食いに行こうぜ」  栗本は佐代子の荷物を持った。佐代子は荷物が多かった。私も彼女のラケットを持った。     *  テニス場のそばにあった店は学生を専《もつぱ》らの客としているような食事屋である。TVがあり、インベーダーゲーム機がいくつかあり、喫茶と軽食と定食がメニューにある。 「俺、焼き肉定食にする」 「俺も」  菊井と栗本は同じものをたのんだ。 「ほっけ粕《かす》定食って、どんなのですか?」  私は店員に訊《き》いた。 「ほっけを粕漬けにしたのを焼いたものです」 「ほっけ、って何ですか?」 「北海道の魚です」 「粕漬けにするというと、ぐじ、みたいなやつですか?」 「え? ぐじ、って何です?」 「魚のぐじ」 「魚のぐじって?」  私と店員がやりとりをしていると、佐代子が、 「理津子ったら、魚定食はそれしかないんだからいいじゃないの」  困ったような顔をした。 「あじの開きが一匹だけありますよ、それは?」  店員に言われ、私はそれを注文した。 「あたしは、ポテトグラタンだけでいい」  佐代子は小さなハート型の皿に入った料理をたのんだ。 「腹へったよな」 「ほんと」  菊井と栗本と私は話もせずに定食を食べた。彼らの焼き肉定食の味はわからないが、あじの開きはおいしい。ほどよい塩かげんの、海の匂《にお》いのするあじだ。 「ごちそうさまでした」  私が手をあわせるとほかの三人はひどく笑った。 「ごていねいだなあ。食べる前と食べたあといちいち手をあわせて」  菊井が店員にお茶をたのんでくれた。 「ありがとう」  私はまた手をあわせ、ほかの三人はまた笑った。 「りっちゃんって何か宗教をやってるの?」  栗本に訊かれ、私はわずかに迷ったが、 「ううん。癖」  首をふった。 「でも、みごとな食べっぷりだよね。まんがみたいに頭と骨だけにして、きれいに食べてある。すっげえ食欲だな」  栗本は魚の骨を取るのが苦手なために魚を食べないのだと言った。 「佐代ちゃんなんかあんな小さなグラタンを食べるのにも苦戦してるのに」  佐代子はTVに気をやりながら、ゆっくりとポテトグラタンを口に運んでいる。 「もうおなかがふくれちゃった。残そうかなあ」  スプーンを皿の横に置く。 「佐代ちゃん、小食だからね。俺《おれ》が残りを食ったげるよ」  栗本は、間接キス、と冗談を言いながら佐代子の残したポテトグラタンを食べた。残さずにすんでよかった。食べ物を残さずにすんでよかった。残さずにすんでよかったと、私は強く思った。 「ちょっとごめん」  私は洗面所にたち、歯をみがいた。  洗面所からもどってくると三人はTVを見て歓声をあげていた。 「なんの番組?」  私も画面を見た。すぐに下を向いた。  六、七人でフランス料理のフルコースとラーメンを早く食べるのを競うゲームが、TVでは行われていた。  こうした種類のゲームを、私はこれまでにも何度か見かけたことがある。そのたびにはげしい罪悪感に苛《さいな》まれ、TVを切っていた。 「五番がすごいな。肉なんか呑《の》みこんでるんじゃないのか」  栗本が大きな声で笑った。 「ラーメン、手で食べてるぜ」  栗本がテーブルをたたいて笑った。  栗本の顔をなぐりたくなるのを、私は抑制し、うつむいた。 「やだあ、三番の人、鼻からスープが出てる」  けたたましく佐代子が笑った。  私は必死でインベーダーが横歩きするのを眺めた。 (一、二、三……)  蟹《かに》のようなインベーダーの数をかぞえた。コンピューターの合成メロディーを懸命に聞いた。早くTV番組が終わらないか、そればかりを願った。 「どうしたの?」  菊井の声が耳のごく近くでした。  首をわずかに曲げると、彼の顔が間近にあった。 「……嫌いなの、早食い競争って」  私はまた下を向いた。 「ああ」  菊井はうなずいたのだろうか。私は下を向いていてわからない。ただ、声は思いやりのあるものだった。 「りっちゃんも東急線だよね。いっしょに帰ろうか」  菊井は栗本と佐代子に店を出ることを促した。     *  東急東横線新丸子の駅で、菊井と私は降りた。私の部屋はもうすこし先の駅にある。新丸子には菊井の部屋があった。 「缶ビールでも買っていこうか」 「うん」  自動販売機でずいぶんたくさんのビールを買った。 「りっちゃんて、料理できるの?」 「ううん」  私はいつものように答えた。料理ができること、それは決して自ら明かすことではない。はしたないことだ。女としてもっとも下賤《げせん》なことだ。 「そんなかんじだもんな。ひとりっこだからみんなお父さんとお母さんがしてくれたんだろう」  菊井は私の額をラケットのグリップで小突いた。  なにもかもみんなお父さんとお母さんがしてくれたひとりっこ、の像を私は甘受した。菊井の小突き方は、そうした像を甘受せざるをえない思いやりにあふれていた。 「じゃあ、俺が作ってやるよ。冷や奴《やつこ》。簡単で栄養価が高い」  菊井は夜遅くまで開いているスーパーでいくつかの食料品を籠《かご》に入れた。 「手土産がないから、これを私の手土産にするわ」  個人の部屋に侵入するペナルティとして、私はビールと食料品の代金を支払った。  菊井の部屋は八畳間にさらに三畳の台所がついて広かった。 「いいわね、ここ、広くて」  インディアンすわりをしてビールを飲んだ。 「それだけ。日当たりは悪いし、風呂《ふろ》はないし、これだけ広くて安いのも当然だよ」  菊井はラジオをつけた。歌が流れた。先刻のカフェテリアでも聞いた。彼といちゃいちゃしてるところをママに見られちゃったの。舌たらずな歌声が八畳間に流れる。 「これ歌ってる人、まだ学生なのよ」 「知ってる。歌がヒットしたから風呂のあるところに住めるんだろうなあ」 「佐代子は風呂のあるところに住んでる」 「だって自宅だろ。自宅にはふつう風呂があるよ」 「私が小さいとき住んでた教会には風呂がなかった」 「教会? りっちゃん、教会に住んでたの?」 「預けられてたの……あっ」  私は乾燥りんごのことを思い出した。 「これ、あげる」  スポーツ・バッグからプラスチック容器を取り出すと、私はそれを冷蔵庫に入れた。 「アイルランドの乾燥りんごなの。コーンフレークなんかにかけて食べるの」 「へえ」  菊井は私が閉めようとした冷蔵庫のドアをとちゅうでとめた。 「俺、腹がへった。冷や奴、食おう」 「え、もうおなかすいたの? さっき焼き肉定食食べたのに」 「あそこ、うまかったけど量が少なかったじゃない? 豆腐出してよ」  菊井に言われて私は豆腐を取り出した。 「あれ。これは焼き豆腐よ。焼き豆腐買ったの?」 「いけね。そうだった?」  菊井は木綿豆腐と焼き豆腐をまちがえてスーパーの籠に入れていたのだった。 「いいや。焼き豆腐の冷や奴で。豆腐が食べたくてたまらない。俺、一日一回は豆腐の料理を食べないと気がすまないんだよ」 「ふうん」 「りっちゃんは教会に住んでたんだろ。俺は子供のころ、寺に住んでたんだよ。毎日、豆腐食わされてさ。そのころはうまいと思わなかったんだけど、東京へ来てひとり暮らししてるとやたら豆腐が食べたくなる」 「お寺って高野山?」 「高野豆腐を思い出してんの? ばかだな、寺っていったら高野山だけじゃないぜ」  菊井の発する「ばかだな」には特有の神秘性がある。絵本の中のお城のような、私の知らなかった響きがある。あるいはまったく逆に、寺に預けられていた幼年時代を持つ彼に対して感じる安堵感《あんどかん》だろうか。 「じゃあ銀閣寺?」 「国宝に住んでられないよ」 「でも、あのへん湯豆腐屋さんが多い」 「銀閣寺が湯豆腐屋をやってるわけじゃないだろ」  静岡県にある市名と寺の名前を、菊井は告げた。 「そこ、伯父《おじ》さんの寺だったの。俺んちのすぐとなりでさ。俺のとこは共稼ぎだったから、小学校がひけたあとは伯父さんとこに帰ってたんだよ」  おやつとして揚げだし豆腐をよく食べたと菊井は言う。 「すごくあっさりした揚げだし豆腐なんだよな。でも、冷や奴や湯豆腐ほどあっさりしてなくて、適度なボリュームがあって、ほんのり甘いなんかがかかってるの」  揚げだし豆腐が食べたい、と、菊井は繰り返した。 「小麦粉ある?」  私はしかたなく訊《き》いた。 「ない。うどん玉ならある。うどんでも作ろうか」  菊井は空腹のようである。 「うどん玉のほかにはさっき何を買ったの?」 「たまねぎと酢とコーンフレークとミルクとチーズとハム。ハム食べる?」 「いいよ。焼き豆腐を使ってなにか作ろう」  このような場合に料理をしても汚い手段にはならないだろう。私は自分にいいわけした。 「豆腐の料理で適度にボリュームもあってしかもあっさりしてるものね」  冷蔵庫の中のものを見てから、私は五、六秒ほど考え、鍋に水を入れた。 「だしこんぶはある?」 「ない。あ、�こぶ茶の素�ならあるぜ」  私は鍋に水を入れた。  それから薬缶に水を入れた。  両方を同時にかけた。  鍋のほうは火は強く、薬缶のほうは鍋よりやや弱く。沸騰するまでの時間差をつくる。  そのあいだに、たまねぎ半個をみじん切りにする。みじん切りにしているとちゅうで鍋のほうが先に沸騰し、そこへ�こぶ茶の素�を耳かき二杯ほど。かきまぜて、そこへ焼き豆腐を入れ、火を弱める。  30秒ほど、たまねぎをみじん切りにする作業をつづける。  みじん切りを終えてそれをどんぶりに移したころ、ちょうど薬缶の水が沸騰する。熱湯をどんぶりのたまねぎにそそぐ。  ショットグラスに酢と醤油《しようゆ》とサラダ油を六対三対一の割合で入れて混ぜたあたりで、たまねぎを笊《ざる》にあけて湯を切る。湯を切ったたまねぎにはひとつまみの塩をふる。  焼き豆腐を鍋からあげ、小鉢に入れる。焼き豆腐が隠れるぐあいにたまねぎをふりかける。そしてショットグラスに作ったドレッシングをかける。 「ほい」  私は小鉢を菊井に渡した。 「六分だ」  菊井は鉢を片手で受け取りながら、片手で時計を指した。 「コマ送りで映画見てるようだったよ」  菊井は私の顔をめずらしそうに見た。 「すげえ速いんだな、りっちゃんて料理するの。これ、得意のレパートリーなの?」 「ううん。今考えた」 「今考えた? じゃ、これ、食べるのは俺《おれ》がはじめてなわけ?」 「うん」 「おいおい、だいじょうぶだろうな」 「たぶん焼き豆腐には合うと思うんだけど」  私は鍋とまな板と包丁を洗った。 「うまい」  菊井は大きな声で言ってくれた。 「めちゃうまだよ、これ」 「ありがとう」  私は菊井の鉢から一口だけをもらった。 「あら、ほんとにおいしいわ」  自分で自分の作ったものを褒めた私を、菊井は笑った。 「けど、ほんとにうまいよ、これ。さっきはなんで料理ができないなんて言ったの?」 「それは……」  私の指と手が萎縮《いしゆく》する。 「傲慢《ごうまん》な気分でいたんだと思う」  トレーナーの袖《そで》を引き、手首を隠した。両手を胸の前で交差して鎧《よろい》のような乳房を隠した。 「傲慢? どういうこと?」  私は菊井には答えずに、立ち上がって歯をみがいた。恥ずかしくて彼の目が見られなかった。  自動販売機の前で訊かれたときは自分の心の奥の傲慢さに気づかなかった。  料理ができることをどこかで見抜いてもらいたがる少女趣味な感傷。少女趣味な感傷が許可される容姿を所有していないのに分不相応にも感傷にひたった傲慢さ。  私は恥じた。 「まだ歯みがいてんの? まだビール残ってるよ」 「飲むよ」 「歯みがいて?」 「ビールは液体だから、あとでうがいをすればすむ」  私は歯ブラシをケースにしまい、流しの前に立っていた。 「そんなに歯みがいてばかりいると、歯が削れちまうぞ」 「お医者さんからもそう注意されてる」 「みがきすぎないようにしましょう、って?」 「うん」  流しの前に鏡がかけてある。鏡の横には小さな写真がぶらさがっている。ペンダントのようなものに入った写真である。 「そんなきれい好きじゃあ風呂なしの部屋はイヤだろうな」 「でも、銭湯の真ん前なの」  私は八畳間に戻った。 「プロになって絵が売れるようになったら風呂のある部屋に越せるよ」 「そうだね」 「きっと売れるよ、りっちゃんの絵。俺、なんかそんな気がする。りっちゃんはずっと絵を描いて、そしてそうやってずっと暮らしていくような気がする」  そんな気がする、そんな気がする、そんな気がする、と菊井は十回くらい言った。 「ねえ、あの写真の人のこと佐代子は知ってるの?」 「なんとなくは気づいてるんじゃないかな」 「栗本くんは?」 「知ってる。だから積極的に佐代子に迫れるんだろ」 「もうすこし積極的になってもいいのに」 「あれ、りっちゃんて俺の味方じゃなかったの?」 「私? 私はスイスみたいに公平よ」 「スイスね。でも俺たち、最近うまくいってないんだよ」 「どっちと?」 「写真のほう。なんか会うと口論になっちゃってさ」 「親密じゃないとけんかできないよ」 「……女の子って、キスしたくらいがいちばんたのしくない? こんなことを女のきみに同意を求めるのもへんな話なんだけどさ」  キスしたくらいが精神的にはもっともたのしく、三回目のセックスのときが肉体的にはもっともたのしい、と菊井は話した。 「そうでしょうね」  私は男とキスをしたことがない。セックスもしたことがない。しかし、菊井の言うことにはなぜか共感できた。なぜか身体《からだ》の芯《しん》から菊井の心境が想像できた。 「いちばんいいときで終わっておくほうが二人ともいちばんいいのに、って俺、思っちゃったりもしてさ」 「二人ともにとっていちばんじゃないのよ。男にはいちばんなのかもしれないけど女は処女の場合、最低四十八回はセックスしないと肉体的なたのしさが来ない」  のだろうと私は想像した。想像にすぎなかったが、 「なるほど、そうか」  菊井はしきりにうなずいた。 「週に一回として月に四回。四×十二で四十八。一年で四十八ってその計算だろ? しかし、かならずしも週に一回会えるとはかぎらないから四十八回目にたどりつくまでには二年くらいかかるよな……」  菊井が紙に筆算をしているあいだ、私は休息日である第七日目ははたして土曜なのか日曜なのかどちらなのだろうと考えた。 (日、月、火……と数えるのだろうか。それとも月、火、水……と数えるのだろうか)  菊井は具体的にセックスの話をしはじめた。私は書物の知識の補助で想像した。想像するのは少しも困難なことではない。  カインをみごもるまでにはイブも菊井の言うようなセックスをしたのだろうか。  バルビゾン派の絵のような風景の中で裸で抱き合うアダムとイブは肉欲からもっとも外れたところにいるような気がする。彼らは健全だ。 「女のほうが肉欲が強いんじゃあないんだ。たくさんしないとまだわからないんだ」  菊井は言い、 「教えてあげるのが男の義務よ」  私は言った。  言ってから、私は自分の滑稽《こつけい》さに哄笑《こうしよう》しそうになった。キスもセックスもしたことがないものが諭しているのだ。 「四十九回目からはまた新たな快楽が二人のあいだに出現するかもしれないんだ」  菊井は時計を見、すぐに電話機を見、そしてまた顔を私のほうに向けた。 「りっちゃんはやっぱ、いいこと言うよなあ。きっと絵は売れるよ」 「ありがとう。あ、四十八手というのは週に一回すると計算して一年が充実するように考案されたのかなあ」 「そうか。きっとそうだよ。りっちゃんはやっぱ、いいこと言うよ。きっと画伯になる」 「なるわ。絵の注文をさばくのに困るような画伯になるの」  ラジオから学生の歌手がうたう歌が流れた。そうすればすこしは気がおさまるの。そうすればすこしは気がおさまるの。  菊井が最後のビールを開けた。ぷしゅっという音と電話のじりりという音が同時だった。 「もしもし」  言ってすぐ、菊井の頬《ほお》に甘い翳《かげ》りが浮かんだ。 「だから、あれはさ……」  肩にも甘い翳りが浮かび、声が低くなる。私はベッドに投げられてあった彼のヨット・パーカーを勝手につかみ、部屋の外に出た。  小糠雨《こぬかあめ》である。  ナイロンのパーカーのフードを目深にかぶり、私はアパートの裏手のほうへ歩いて行った。  アパートは多摩川べりにあり、夜の川原は黒いかたまりだ。下りてゆくのがためらわれ、私は明るいほうへと道を選んだ。  ビールのせいだろうか、すこし耳鳴りがする。  小料理屋が一軒、軒先の赤い提灯を風にゆらしている。提灯がゆれるのをじっと見ていると目がまわりそうになった。  煙草の自動販売機にもたれた。自動販売機の白銀色の照明はぎりぎりとたくましく、風にゆれない。  小料理屋の引き戸が音をたてて開く。背広を着た男が二人、ネクタイをゆるめて肩を組むあんばいで出てきた。 「おひとり? ブスなおねえちゃん」  すれちがいざま、呂律《ろれつ》のまわらない口調の男のひとりが私に言った。 「やめとけよ、男だよ」  もうひとりがもうひとりの肩を引き、二人は路地をまがってゆく。  ブスという語は何語なのだろう。ともかくも、それは決して顔の造作によって決定されない。男にとって女としての価値のないこと、それがブスということである。背広の男が私に言ったことは、そういう意味で正しい。  菊井のパーカーのポケットにはライターが入っていた。  私は自動販売機に小銭を入れた。喫煙の習慣は私にはない。どの銘柄のボタンを押そうかしばらくまよい、ひとつを選んだ。  ショート・ホープ。 (短い希望。へんな名前)  私は辛いその煙草を歩きながら吸った。アパートにもどり、菊井の部屋のドアをそっと開けると、彼はまだ電話している。  ドアを閉めて、セメントの通路にしゃがみ、またショート・ホープに火をつける。ほとんど煙を吸い込まなかったが、目がまわりはじめた。  セメントに足を投げ出してしまう。セメントは濡《ぬ》れておらず、冷たい。乾いていて冷たかった。 「悪い。終わったよ」  ドアが開き、もたれるものを失って私はすこしよろけた。 「酔った? 泊まっていきなよ」 「歯みがくね」  ニコチンが歯に付着しているようで気持ちが悪い。 「また? ほんとに削れちまうぜ」  菊井は押入れを開けてパジャマを貸してくれた。 「布団はこれしかない」  簡素なセミダブルベッドを指す。 「セミダブルだからくっつかずにはすむと思う。枕《まくら》は座布団にバスタオルかけたんでいい?」 「いい」  三畳の台所で私はパジャマに着替え、簡素なベッドに横になった。  電気を消すと、私は急速に眠くなった。ビールのせいもあったかもしれないが、菊井という人間によるところが大きいと思う。彼は安らかな空気を作る人間だった。  確実なる睡魔の訪れ。だが、まだ完全には眠ってはいない。 「なんだかこうして二人で横になってると、蚊帳《かや》を吊《つ》りたくなるね」  日曜学校で行ったサマーキャンプ。大きな蚊帳越しに蝋燭《ろうそく》に照らされる小さな十字架が見えていた。 「わーがままを捨てて、ひーとびとを愛し、そーの日のつーとめを、なーさしめえたあまあえや」  ぼんやりした眠そうな、小さくかすれた声で私はうたった。 「それ、賛美歌?」 「キャロちんのうたうのはいつもアーメンソーメンの歌やゆうて、よう近所の友達にからかわれたわ」 「りっちゃんて、キャロちん、って呼ばれてたの?」 「うん。そうや、その近所の友達もサヨコてゆう名前やったんやで」  小夜子の顔を思い出そうとする。暗闇《くらやみ》のなかで小夜子の顔は佐代子の顔になってしまう。 「りっちゃんて昔のことしゃべろうとすると方言になるね」 「そう? 気がつかへんかった」  睡魔はどんどん私の全身に侵入してくる。安らかなあたたかい時間。小菅さんや高木さんの家のきょうだいは、きっとこんなふうに心地のよい時間を毎晩享受していたにちがいない。きょうだいは神秘的な憧憬《どうけい》だった。 「なあ、新丸子って駅の名前、聖書みたいやなあ」  新約聖書。新・マルコによる福音書。汝《なんじ》、姦淫《かんいん》するなかれ。なあ、あれは何《な》んの章やったかいなあ。私は菊井に話しかけたが、菊井はもう寝息をたてていた。ほどなく私も眠りにおちた。  朝、コートネイさんの乾燥りんごをコーンフレークにかけて二人で食べた。私が知らなかった団欒《だんらん》のよろこびを、菊井は与えてくれた。  以後、何度も私は彼の部屋に泊まり、団欒のたのしさを与えられた。     * 「団欒は親友だな」  大西は言った。  私はしばらく考えてから言った。 「ええ、菊井くんは親友と呼んでいいと思うわ」 「そりや、よかった」  ほんとに、と、なぜか大西はうつむいてつづけた。 「よかったよ」  大西はうつむいたまま眉間《みけん》に指を当てている。 「どうしたの? 頭、痛くなったの?」 「いや、痛くない」 「ぼたんえびを食べない?」  私は大西の顔をのぞきこんだ。 「ああ、食べよう。それから、こはだとほっき貝と、いかげその唐揚げと、それから、あいなめを食べよう」 「うん」  こはだとほっき貝、いかげその唐揚げ、あいなめ、そして、ぼたんえびと、ぼたんえびのたまごが私たちの前に並んだ。  ぼたんえびのたまごに、私はまず箸《はし》をのばした。ぼたんえびのたまごは、たらこの粒の大きさでエメラルド・グリーンをしている。  あざやかな色は毒々しさを感じさせる。食べると腹の中でぼたんえびが孵化《ふか》しそうな色である。その毒々しさが食欲を呼び、舌に唾《つば》がたまる。 「なあ」  紅葉おろしとあさつきのきざんだものを酢醤油《すじようゆ》に混ぜ、あいなめをそこへ浸しながら、大西は私に訊《き》いた。 「あんた、七五三はやらんかっただろ」 「七五三? 七五三のお祝いのこと?」 「ああ。やらんかっただろ」  両親と同居するようになった年が十二歳であるから、そう訊かれれば「やらなかった」ということに気づいた。 「七五三をやってもらうとよかったのにな」 「どうして?」 「どうして、って、やったほうがよかったから」 「でも、クリスマス・パーティはけっこう盛大にやったよ。松子先生がアイスクリーム・ケーキを作ってくれたし骨のついたかしわも焼いてくれた。コートネイさんがすっごくきれいなロザリオをくれて、大事にしていたんだけど、引っ越しするときになくしてしまったの」 「それは教会でやったんだろ」 「そうよ。教会だったから盛大だったわよ。人が大勢来たし」 「お父さんとお母さんも来たか?」 「二十五日とか二十六日とか、二十三日とかには来た。別々に来るから、長靴が二個もらえて他の子たちからうらやましがられた」 「ふうん、長靴ね」 「銀色の長靴の入れ物に入ったお菓子のセットがあったじゃない? おぼえてない?」 「おぼえてるよ」  大西は、いかげその唐揚げを食べた。私はぼたんえびの頭の殻を剥《は》がした。 「じゃ、生理になったときは?」 「生理になったとき? 生理になったときのお祝いのこと?」  私はすこし迷った。 「生理になったときにお赤飯炊くようなお祝いのこと? 今どき、そんなお祝いする家なんてあるかしら?」  ぼたんえびの頭の味噌《みそ》がこぼれぬよう注意しながら、私は殻を丁寧に剥がす。 「じゃ、親に言ったか?」 「ひとことくらいは」  中学生になったばかりのころ、ブラジャーを盗んですぐ、私は初潮を迎えた。体格に比して遅い初潮であった。 〈生理になった〉  ひとことだけ、私は母親に告げた。 〈そう〉  母親も、ひとことだけ答えた。 「でも、その日は母親の夢を見たわ。怖い夢だった」 「どんな夢?」 「巨大な鋏《はさみ》を持った母親が追いかけてくる夢」  フロイトに分析してもらうまでにおよばない。単純な夢である。 「生理だったので、その日はシャワーだけを使ってたの。そしたら母親がいきなりお風呂《ふろ》場の戸を開けたの」  湯舟にはつかるな、とでも注意しにきたのだろうと思う。 「私の身体《からだ》をしばらくながめてた」 「なんで?」  長いあいだ離れて暮らしていたので、母親としては初潮を迎えた娘を慈しんでくれたのだろう。そうだろうと、私は思うようにしている。 「さあ」  なぜ彼女が私の裸を見ていたのか、その正確な理由は、おそらく永遠にわからないだろう。彼女はその日のことを忘れていると思う。 「さあ、なんとなくじゃないの? それでね、母親は私の肩を強く掴《つか》んだの」  掴んで彼女は言った。 〈もうちょっと肩幅がせまかったらよかったのに。せめてもうちょっと。この大きな肩。なんていかつい。切ってあげられるといいのに〉 「単純ね。だから母親に鋏を持って追いかけられる夢を見たのね」  私はぼたんえびの頭に口をつけて、味噌を啜《すす》った。指にどろりとしたえびの体液が付着した。 「それも舐《な》めろ」  大西は言い、指を舐める私を、彼は見ていた。  第四章  大西との八回目の食事は天麩羅《てんぷら》である。JR駅の近くにあるビル内の店で、二回目の食事もここだった。 「れんこん」 「れんこん」  大西と私は同時に言った。白米と味噌汁、漬物、青菜のひたし、日替わりの小鉢、それに天麩羅がつく。天麩羅は好みのものを、値段による数だけ選べる。 「れんこん、と」  店員は伝票に記した。 「れんこん」 「れんこん」  大西と私はふたたび同時に言った。 「れんこん。れんこんを二つずつですね。それと?」  天麩羅が冷めぬよう、まずは三品ほどを揚げてくれる。 「なす」 「なす」  また同時である。 「なす、と」  店員が記入。 「それから、はぜ」 「はぜ」  また同時である。 「あいにくとはぜは今日、切らしておりまして、きすになりますが」 「じゃあ、きす」 「きす」  同時である。  二回目にここで食べたときも、大西と私の天麩羅の注文はまったく同じだった。  揚げ物の品も、大根おろしを多く注文することも。そして、大根おろしを、最初は天つゆに入れず、れんこんを浸す。れんこんの衣が天つゆの醤油《しようゆ》分を吸い、舌の先頭部分がその醤油辛さを、中央部分がれんこん自体の甘味を感じ、咀嚼《そしやく》する歯はれんこんのさくさくした硬さを感じ、飲み込むときに舌の奥の部分がれんこんの苦《にが》みを感じつつ、咀嚼されているため辛味と甘味がその苦みに混じり、喉《のど》がれんこんの旨《うま》みに満たされる。すぐにつづけて、二個目のれんこんを食べ、満足感を強固なものにする。 「おいしい。本店よりこの支店のほうが、客が少ないから油が新しいのかしら」 「そうかもしれん。だとしたら穴場だな、ここは」 「天麩羅こそ外食にかぎるわ」  基本的に私は天麩羅をあまり好まない。一年に二回ほど食べたくなる。なぜかあまり日にちをあけずに食べたくなる。が、いずれにせよ、一年に二回しか食べないものを、自室で油を大量に使って作る気になれない。 「この二週間は外食ばかりだな」 「すごいわ、画期的な二週間だわ」  学校を卒業してから、仕事の打合せ以外で人と食事をした回数は両手で数えられる。そしてすべてそれは、卒業してしばらくの期間に集中している。この五年間にかぎればゼロである。 「すごいわ」 「大袈裟《おおげさ》な。めしでも食おうって電話がかかって来るだろ」  大西に言われ、私はこの五年間に両親以外の人間から私用で電話がかかってきた日があったかどうかを考えた。 「かかってこない」  電話は、そういえば、この五年間、かからなかった。男性、女性ふくめてだれからもかかってこなかった。  かかってくる電話は仕事の電話のみ。郵便物も仕事のもの。仕事にかかわる礼状、挨拶《あいさつ》状。その種のものだけである。 「訊《き》かれるまで気づかなかったわ。いやだわ、私って友達がいないのかしら」  そういえば、いつも私が電話をかけていた。ねえ、お寿司でも食べに行かない? おいしいお好み焼き屋があったのよ、行ってみない? ごはんいっしょに食べようか? 私はだれかをよく誘ったが、そういえばだれかから食事をしようと電話がかかってきたことが五年間に一度もない。 「とくに今年、去年となると私が電話したこともなかったんじゃないかな」  友人たちにはもう友人たちの生活がある。彼らは会社で数人の人間と接触し、プライベートな時間にもどったときには、さぞやひとりになりたいだろうと思う。電話をかけて私が誘うのはそんな大事な時間を私が奪うことになる。 「じゃあ、あんたがうまいって教えてくれた店も、それ、ぜんぶ、ひとりで行ってたのか?」 「そうよ」 「そうか」  きすが皿に載せられた。 「きすよ」 「うん」  私と大西は大根おろしを半分だけ天つゆに入れた。それから、きすの衣を「半裸に」剥《は》がす作業にとりかかった。箸《はし》で剥がすと、ぺろりときれいに剥がれてしまう。箸は使わない。  指で脱がす、といったほうがいい。ハニー・イエローの清楚《せいそ》な色をした衣を指で脱がせる。指は熱さに耐えられず、乱暴な脱がし方になる。ふっくらとした衣は無残にひっぱがされ、破れ、まっしろなきすの身にへろへろと纏《まと》いついているにすぎなくなる。  半裸のきすを大根おろしの入った天つゆの鉢に浸す。まっしろなきすの身が醤油汁をかけられて、がっくりとうなだれる。鉢から取り出すと、破れた衣に大根おろしがねちねちとからみつき、口に入れるとほどよいボリューム感となってひろがる。 「じゃあ、ちょうど五年前は? 五年前に、男といっしょにめし食ったか?」 「食べたわ。二十八歳の年のこと、よくおぼえてる。ひとりはプール監視員をしていた人で、もうひとりはすこし顔みしりだった人」  二回食べたプール監視員のことを、私は大好きだった。 「そのころ、今住んでるところよりずっと狭くて古いところに住んでいたの。日当たりも悪かった」  デザイン学校を卒業してしばらくはホテルの清掃アルバイトをしながら絵を描いていたのだが、アルバイトをいっさいやめて絵だけで生活していくとなると、おのずから住むところは最悪の部屋となる。 「昼も夜も絵を描いていたの。仕事の依頼がなくってもデッサンを欠かさなかったわ。日当たりが悪くて絵を描くのにはぴったりよ。でもね、筋肉がこわばってしまって絵にも影響するんじゃないかと思って市民プールに通うことにしたの」  水泳と食事と睡眠以外は絵を描いていた。洋服を買わなかった。買えなかった。化粧をしなかった。化粧品が買えなかった。  こうした生活にみじめさやつらさを感じたのかどうか、ふしぎなことにまったく記憶がない。そのときは感じたのかもしれない。感じなかったのかもしれない。 「絵を売るためのもっともまっとうな方法は絵を描くことだと、それしか頭になかったの」  それがあまりにも確信に満ちていたので、暮らしぶりについての感情を思い出せないのだ。ただ、生理が不順きわまりなく、生理時は痛くて動けなかった記憶だけが残っている。なぜなら、それは現在でも同じだからである。 「市民プールの水泳教室に入ったの。クロールが上達したころ、雑誌の表紙を毎月描く仕事を獲ったのよ」  だれもが知っている雑誌ではなく、画料も世の中の物価からすれば廉価であったが、とにもかくにもその仕事は私に、プール監視員の存在に気づく暮らしの余裕をもたらした。 〈二十八歳にはぜったい見えないよ。高校生くらいかと思った〉  一つ年下のその監視員は言った。二回食事をし、二回、キスをし、一回、眠った。 〈こうして腕枕《まくら》してあげられるのがうれしい〉  巨体の男で、彼の太い腕と長い身体《からだ》は、私から自分の肉体の負い目を取り払う威力があった。私は彼の前では、手や手首をぶかぶかの洋服の袖《そで》で隠さずにすんだ。  彼は腕を私の首の下にのばして、眠った。 〈再来週、いっしょに伊豆へ行こうよ〉  翌朝になって、彼は言い、私も伊豆を夢見た。しかし、結局、行かずに終わった。  彼は〈再来週〉になるまでのあいだに別の女性にひかれた。 〈白川さんは冷たい〉  彼と最後に会った日、彼は言った。 〈でも、彼女はさびしさを知っているからとてもやさしい〉  私は彼から、何枚もの彼女の写真を見せられた。頬《ほお》の丸い、肉付きのよい、しかし骨組みはきゃしゃな女性であった。 〈中絶をしたかなしみを乗り越えた人のやさしさがあるんだ〉  彼はひとしきり彼女の人柄や生い立ちについて私に聞かせた。 「なんで、そんな話をそいつはあんたにしたんだ? あんたの立場にある女にする話じゃないだろうが」  大西は、きすから指にしたたったつゆを舐《な》めた。 「さあ……」  愛する女性とめぐりあえたよろこびで彼はいっぱいだったのだろうか。  その日から半年ほどの期間、私は水泳をせず、ほとんど食事をせず、ほとんど睡眠をとらず、絵だけは描こうとした。絵を描くほかには泣くということもした。 「そういうときはひとりでいないでどんな男でもいいから、めし食やよかったんだよ」 「私もそう思った。そんなときにある人から電話があったの」 「それがあとのもう一回?」 「そう」  ホテルの清掃アルバイトをしていたときに顔みしりだったKという男からだった。Kはホテルのフロント係だった。 「久しぶりだね、って。それで、日比谷にあるホテルのラウンジでサンドイッチを食べて、カクテルを飲んだわ」  カクテルを飲みながら、Kは何度もなにかを言いかけてはやめた。 〈ねえ、最近さあ〉  ここまで言ってはやめてしまう。何度目かでやっと、 〈ねえ、最近さあ、Rちゃんに会う?〉  と、最後までを言った。Rも私と同じ清掃のアルバイトをしていた。 〈まだ結婚していない。引っ越しして今の住所は厚木〉  Kがもっとも望んでいると推測される情報を、私は即座に察して与えた。 「KとRが仲良かったってこと、あんたは知ってたのか?」 「知らなかったけど、その質問ですぐわかった。中学や高校のころから、この種の任務は心得てるのよ」  私はKにRの電話番号を教えた。 〈あの子はナーヴァスだからなあ……結婚は難しいだろうなあ〉  Kがためらっているので、 〈今つきあっている人がいるかどうかまではわからないわ。電話してみれば?〉  私はできるかぎり励ました。  Kはすぐには席をたたず、Rの母親はRが高校生のときに再婚したので、彼女の父親は義理の父親なのだと言った。 〈明るいけど、どっかさびしそうなのはそんなふうな複雑な家庭環境にあったんだなあって思ってたんだよね……〉  Kに言われて、私は自分がこのあと彼にすべきサービスを考えた。 「電話かけてやった、とか?」  大西が言った。 「そうよ。なぜわかったの? 私、Rちゃんに電話をかけてあげたの。ロビーからね」 「いた?」 「いたわ。すぐにKさんにかわって、電話コーナーからははなれたロビーのソファで待っていたのだけれど……」  Kの電話はおそろしく長かった。私は席をたって彼のほうに向かって手をふった。 「Kさん、気づかなかったのね。観葉植物があったせいかしら。それで手をふりながら後ろ向きに数歩さがったの。そしたら、自動ドアが開いたのよ」  がーっと大きな音をたててドアが背後で開き、私は驚いて身体の向きを変えた。 「それでそのままホテルを出て帰ってきたの」 「Kってやつはあとで連絡してきた?」 「してこなかった。今から思うと失礼なやつね」  天つゆに入れなかった、残りの大根おろしを、私は食べた。大根おろしには何もかけない。れんこん二個と半裸のきすの濃厚さを、何もかかっていない大根おろしの淡泊さで休めるのだ。 「五年前にめしを三回食ったっていうのは、じゃあプール監視員の二回と、そのKってやつのサンドイッチ?」 「うん」  二十八歳のときに異性とふたりで食事をした回数は合計三回。 「それから、五年間、俺《おれ》とめし食うまでゼロなわけ?」 「もちろん仕事がらみの打合せなんかでは食べたわよ、大勢と。でもプライベートでふたりで食べたとなるとゼロよ」  静かな私生活だった。とても静かな暮らしだった。 「それから三十歳になって。三十歳になってしまうと、もうだれもが私が私生活でいつもひとりで食事をしているとは思わないのよ。ふしぎね。CMに出たり雑誌に出たりするとよけいにそう思われるから、よけいに静かな暮らしになったわ」  大正えびが皿に載せられた。大正えびには天つゆをつけない。塩をつけて食べる。 「年はそんなに関係ないよ」 「そうね。そんなに関係ないわね」 「でも、すこしは関係あるかな」  大正えびの、よく揚がった頭の殻を噛《か》む音が、二人の口から洩《も》れる。 「ほんとにゼロだったか?」 「……いえ」  三十歳のとき、一度食べたことがある。その日のことを、私はずっと、一度も思い出さなかった。思い出さぬように努め、そのうちにそのできごとはミイラになった。 「……一回だけあったわ。食事ではないけどお酒を飲んだ」  栗本と偶然、駅で出会ったのだ。日当たりの悪い狭い部屋から、日当たりがよく坪庭のある部屋に引っ越してまもないころのことだった。 「栗本ってテニスをいっしょにした豆腐の好きなやつ?」 「いいえ、それは菊井くん。菊井くんの同級生が栗本くん……」  雑誌の企画取材のあった夜、私は、ただ偶然に栗本と駅で会い、酒を飲んだ。  第五章  いつくしみ深き  友なる主《イエス》は  罪 咎《とが》 憂いを  とりさりたもう  新しい広い部屋のバスタブのなかで、三十歳の私は正座をしていた。バスタブは棺桶《かんおけ》のようなかたちをしている。細くて長い。  壁に斜めに金属のパイプが嵌《は》められている。私は金属パイプをにぎりながら、ずる、ずる、ずる、と湯の中に身を沈ませた。 「いーつくしみふかーき……」  顔だけを湯から出して賛美歌をうたった。くちびるがぶくぶくと、ときおり湯を波立たせた。  あなたは処女ですか。  その質問を私はもう受けない。質問を受ける年齢をとうにすぎてしまった。  私が処女なのかどうかについては、まよう。男とファックをしたことがないだけのことを処女と呼ぶほど世界が寛大であるのならば、私は処女である。  しかし、現実には世界はそれほど寛大ではないだろうし、私も処女であると人に言えるほど汚れなきものではない。いや、汚れた分際で処女であると思えるほどは汚れてはいないというべきか。 〈ふしぎやねえ。結婚してはらへんのにマリアさまには赤ちゃんができたんよ〉  クリスマスに行うキリスト生誕劇の練習をしているとき、シスターは日曜学校の生徒にそう言った。私には、なにがふしぎなことなのかわからなかった。聖母受胎がふしぎなことであることもわからなかったし、自分の父母のよそよそしい関係を結婚だと認識していた私にはヨセフとマリアの関係を「ふしぎ」だとすることがまったく理解できなかった。  マリアは汚れていない。私は汚れている。砂を食べるふりをしてまで小夜子の尻《しり》を見たかったし、髪がやわらかく見えるようにしようとパーマをかけ、口紅を欲しがった。  Kが長い電話をして私を待たせたとき、観葉植物のうしろで漫才師のようにおどけて手をふりながら、私はかなしんでいた。彼の恋人になりたかったわけでも、彼が好きだったわけでもないのに、かなしむなど傲慢《ごうまん》なことだ。汚れている。  湯に沈んだ自分の身体《からだ》を見た。湯で屈折してへんなかたちに見えた。 (小夜子や佐代子やRも自分の身体について考えることがあるのだろうか)  爪《つめ》のかたち、頬《ほお》のカーヴ、髪質、首の、肩につづく、そのつづきかた、歯と歯茎の色と整列の完成度、乳房の大きさ、乳首の色、ウエストのくびれの精密度、大腿部《だいたいぶ》の肌のきめ、上腕二頭筋の縮まり、腋下《わきのした》の毛の量と体臭、足の小指のかたち、かかとのきめ、アキレス腱《けん》の浮かびかた、そして、脳の記憶の処理。こうしたことについて、 (彼女たちは考えることがあるのだろうか)  私は美しくないと、バスタブのなかで思った。  風呂《ふろ》を出て音を消したTVをつけると、一回の写真撮影の料金が五百万円という欧米人モデルが何度も何度もブラウン管に出る。  送られてきたファクシミリに目をとおした。計、六枚の送信。すべて仕事に関するものである。  そのうちの一枚に、 「深夜でもいいのでご連絡|乞《こ》う」  と、書いてある。雑誌の企画取材とのことだった。指示された電話番号を私は押した。発行部数の多い男性誌の編集部の番号である。  CMの仕事をしてから雑誌の取材が増えた。絵とは何の関係もない取材も。 「白川さんを取材するのとはちょっとちがうんですが」  私がなにかを取材する企画である。 「知らない世界を探訪するってグラビア・ページなんですけどね」  スカイ・ダイビング、陶芸、ディスコ、太極|拳《けん》、等々、毎回なにかを、ゲスト・ビギナーと名づけられた女性が体験してグラビア記事にするのだという。 「同時にゲスト・ビギナーの紹介記事でもあるんですよ。絵には直接関係ないんですけれどね。やはり雑誌のグラビアには女性に花を添えてもらわないと」  女性が雑誌のグラビアに花を添えられる時期には限度がある。 「もう私は限度をすぎてますが……」 「ぎりぎりだいじょうぶですよ」  編集者は彼なりの気遣いをして冗談を言った。  花の年齢のときに、私はひとりでただ絵を描いていた。 〈うちらを捨てるんか〉  デザイン学校を卒業しても東京に残ることにしたとき、両親は言った。そのとおりなのだと思う。私は両親を捨てたのだ。親を捨てた者は享楽も捨てなければならないという強迫観念が私には強くあった。  この年齢になってはじめて、あがいている。そして、あがいてももう遅すぎたことを知り、さらに、 (遅すぎたのではなくさいしょから資格がなかった)  のだと、私は受話器をにぎりながら知った。  プール監視員は〈さびしさを知っているやさしい人〉を見つけて私の前から消えたが、年月を経て、あのとき泣いたのは許されざる行為であったと思う。 (私には泣くなどということは分不相応なのだ)  プール監視員が告げたとおり、私は冷たい。セメントの廊下のように冷たく、砂漠のように強い。交換日記に私の悪口を書きつづけた岩崎康は、おそらくだれよりも先に、だれよりもよく私の冷たさと強さを知っていたのだろう。 「もしもし。白川さん。聞いてます? グラビア四ページです。カラーの」  編集者の声は大きい。 「は、はい。聞いてます」 「それでね、今回の体験内容は、ホスト・クラブなんですよ」 「…………」 「あれ、いやですか? べつにとくべつなことをするわけじゃないんです。店に行って、ホストの人とちょっとしゃべって、そのやりとりがちょこっとページの隅っこに載って……それくらい」 「…………」 「いやかなあ?」 「いいえ」  私は一息ついてからつづけた。 「いいえ。すごく私に向いてると思ったものですから」  ホストなら私の肩を巨大な鋏《はさみ》で切ったほうがいいとは言わないだろう。たとえ心のなかで思ったとしても。嘘《うそ》をついてくれるだろう。 「嘘をついてくださるお仕事の方なわけでしょう? 私に向いてると思ったんです」  強い体躯《たいく》を疎んじたとしても口には出さずにいてくれるだろう。 「嘘をついてくださるお仕事は、えらいですね」 「え、なに? よく聞こえない。何ですって?」 「嘘はえらいですね……」 「なにが? なにがえらいって?」 「私にぴったりです。ホスト・クラブへ行くのは」  私は編集者のように大きな声で言った。 「そう。そりゃよかった。じゃ、すぐに日程を組みます」 「よろこんで行きます。私にぴったりの場所です」  出版社に謝礼をしなければならないのではないかと案じたほど、私は、自分の行くところはホスト・クラブしか残っていないと思った。     *  新宿の喫茶店で、私は視線をどこに向ければいいのか判断がつかない。  電話をかけてきた編集者に向けるべきか、それとも、その編集者が連れてきた女性に向けるべきか。 「彼女もホストって見てみたいって言うんで連れてきたんですよ」  男性編集者は、女性編集者を紹介した。 「はじめまして」 「はじめまして」  私と彼女は名刺を交換する。  私はまごつく。  今日の取材は二人の編集者のうち、どちらが正式担当なのか。彼女のほうと、これから向かうホスト・クラブでの質問内容を打合せすればいいのか。それとも彼のほうとすればいいのか。 「あの……」  訊《き》きかけると男性編集者は、 「すみませんねえ、昼めし食ってないんですよ」  そう言って、テーブルに並べられたカレーライスとサラダとスープとヨーグルトとチャーハンを食べはじめた。 (では、彼女のほうなのかな)  私は思い、女性編集者に話しかけた。 「こういう場所に行くのははじめてです。なんだか緊張しますね。どういうふうな建物なのかしら」 「あら、わたしもはじめてですからわからないんですよ。白川さんはどうぞ、お好きにいろんなことを質問なさってくださいね」  彼女はカメラマンと話しはじめた。その話は私にはよくわからない。社内の事情のようである。  私はまごついた。  彼がこの記事を担当するのか、彼女なのか、それとも二人でいっしょに担当するのか、どちらなのだろう。  どちらなのでしょうか、と訊くことができない。はずんでいる二人の会話に割って入れなかった。できない。私はさして世間が認めているともいえない、すこし便利なイラストレーターにすぎない。  ホストよりもさきに、編集者二人を前にして私は、二人に好感を与えなければならないという義務感で腋下《わきのした》に汗をかいた。  あまり話したことのない人間に対して、私は極度に緊張する。とりわけ初対面の女性編集者には緊張した。 〈理津子、礼儀作法に気をつけなさい〉  コートネイさんは厳しく言った。 〈理津子ちゃん、ご挨拶《あいさつ》はちゃんとせんとあかんで。言いたいことがあってもがまんせんとあかんで。早よう帰ってほしかったかて、まあまああがっていっておくれやす、そう言わなあかへん〉  松子先生は死ぬ前にベッドで言った。 「ねえ、ホストってヘンなのばっかじゃないでしょうね」  蓮っ葉な口調を作って、私は初対面の女性編集者に媚《こ》びた。  蓮っ葉な女だと彼女に思ってもらうことで同性を心地よくさせる。彼女を心地よくさせたい。 「一晩に四回はセックスできそうなのばっか揃《そろ》えてくれてるんでしょうね」  私は女性編集者に笑ってほしかった。髪の短い、なで肩の、骨組みのきゃしゃな、小さな手の、明るい、かろやかな彼女。小さな、小さな、小さな骨の彼女に、きれいな生物に笑ってほしかった。  彼女は少し笑った。私はほっとした。 「そろそろ、行きましょう」  男性編集者は食べ物を食べ終わり、席をたつ。  ホスト・クラブは喫茶店からはずいぶん歩くところにあるという。  先頭を男性編集者と女性編集者が並んで歩いた。一メートルほどはなれて、カメラマンと助手が並んで歩いた。二組はなにかをさかんにしゃべっているようである。私は人混みにときどき先の四人を見失いそうになり、二メートルほど離れて歩いていた。  夜の繁華街に出るのが、私にはことのほか珍しく、きょろきょろした。おもしろいかたちをした店の看板や、看板のロゴや、ネオンの色が、田舎の駄菓子屋の店頭に並んだもののように私の目をひく。  男の腕にぶらさがるようにして歩いている女がきゃーっと歓声をあげていた。小さな顔の周囲に、顎《あご》の肉がぽってりとついて、それは彼女をひじょうに艶《なま》めかしく見せている。小さな唇を染めた赤い口紅もルビーのように輝いている。男が彼女の耳元に口をつけると、きゃーっとまた歓声をあげた。男は彼女を包みこむように抱き、彼女は溶けてゆきそうに小さくなる。私は女に見とれて立ち止まった。  自分の口紅を拭《ふ》きたかった。なぜ口紅をつけてきたのだろう。顔を洗いたかった。 「ひとりですか。私、日本語できます。お茶飲みましょう」  訛《なま》りのある日本語が私の左斜め上からした。強いコロンの匂《にお》いが鼻孔に入り込む。 「い、いえ」  私はあわてて歩をはやめる。  風の強い日で、吹きつけて抜けてゆく風に私のブラウスはぱたぱたと音をたてる。 「ひとりなんでしょう」  誂りのある日本語は追いかけてきて、私の横にならんだ。 「いいえ」  私は走って先の四人に追いついた。 「どうしたんですか、赤い顔して息せききって」  女性編集者と男性編集者が並んで私をふり返っている。 「いいえ」  私は下を向いた。 「ちょっとはぐれたもので……、走ったから……」 「え、そう? 気づかなかった」  男性編集者は言い、ふたたび女性編集者と並んで歩きはじめた。 「ちゃんとついてきてくださいよ」 「すみません」  私は四人の後をついて歩いた。ブラウスがぱたぱた鳴る。  もっとあたたかい服を着てくればよかった。つまさきも冷たい。私はすぐ足が冷たくなる。 「ここです」  男性編集者が立ち止まった。 「なんだ、こんなところなんですか」  それは予想外の建物である。私は思わず正直な感想を洩《も》らした。  ビルの地下へと向かう狭い急な階段。簡易なステンドグラス。今日のように風の強い日にはたやすく倒れてしまいそうなアフロディーテのレプリカが入口に立ち、小雨が降れば剥《は》げそうな金メッキがしてある。注意していなければ、そこがホスト・クラブだとはわからない。酒類を出すあまたの店と同じ建物である。 「どんなところだと思っていたんですか?」 「ディズニーランドのようなところ」  白雪姫と小人が暮らしていたような小さな白い童話のような建物を、なぜか私は漠然と想像していた。まったく嘘《うそ》の、まるっきり嘘の、完全なる嘘の、世界。とりきめられた嘘の世界を金で買わせる場所として私が想像したのはディズニーランドにあるような建物だった。 「そんなあ、ディズニーランドみたいなメルヘンチックなホスト・クラブがあるはずないじゃないですか」  女性編集者は笑った。彼女が笑ったことはそれはそれでうれしい。 (ホスト・クラブってメルヘンじゃないんでしょうか。虚構なわけだから)  私は口には出さずに彼女の八重歯を見ていた。骨組みのきゃしゃな彼女は顎の発達が虚弱そうで左右二本の八重歯は虚弱な証のように彼女の小さな口に在る。 「まだ開店前の時間ですから、ほかのお客さんはいません」  彼女は言った。  ホスト・クラブのなかは金色のシャンデリアが天井からぶらさがっている。牛のレバーの色をした絨毯《じゆうたん》と、同色のソファ。レプリカの、縮小されたダフネがソファの横に金色に立っている。  私はホストふたりにはさまれてソファにすわった。 「じゃ、白川さん、お話をしていてください」  男性編集者は女性編集者とともに私からはなれた。店の中央にピアノがあり、男性編集者と女性編集者は、ずっと向こうのほうにいるように思われた。  カメラマンと助手は機材の準備をする。私は、こんにちは、とホストに辞儀をし、してから、こんばんは、と言いなおした。  右のホストは四十代で、左は二十代である。右は背広、左はたっぷりとした白いシャツを着ている。右は細長い輪郭の顔で、左は丸い輪郭。右の声は低く、左は高い。右も左も金色の時計と指輪をしている。貴金属の価値について、私はよく知らない。レプリカのアフロディーテとダフネのせいか、彼らの時計と指輪も左右ともにレプリカの金に見える。ここはディズニーランドなのだ。そう思うのだ。 「いい時計ですね」  虚構にこそ価値がある。私は彼らの時計を褒めた。 「お客さんのプレゼントです」  客からプレゼントをたくさんもらえるのも優秀なホストの条件だと、右は説明する。彼は「ホストの心得」と書かれた紙を見せてくれた。 ○力、能力がないのにだれが貢ぐか。店を持たせてもすぐつぶすと思われるだけ。 ○お客様を大切に。自分の生活力である。自分ひとりの給料では独立は無理。自信がつけば徐々に太い客がつく。小さい客でもヘルプのためにも抑えておけば後で答えが返ってくる。 ○自分より顔やスタイル、すべて悪いのになぜモテるか? 魅力は人が判断するもの、無理しても客を呼べ、まわりが評価する。 ○花の命は短い。サラリーマンの一生を短い期間でかせぐチャンス多き社交場である。フルに活用せよ。  心得の項目は何か条にもおよび、さいごに大きな字で「自分を大切に!」と書かれている。 「この、力もないのに、という力というのはどういう力なんでしょうか」  私が訊《き》くと、 「そりゃ、あなた、セックスが強いということよ。わかってるくせに」  左が私の腕をぽんと叩《たた》いた。 「セックスが強い……」  私は復唱した。 「そんなふしぎそうな顔して」  左はまた私の腕を叩き、 「どういう意味かわからない年じゃないでしょ。処女でもあるまいに」  長く笑った。 「もっとくつろいで、エッチな話をふってきていいんだよ、せっかく体験取材しにきたんだから」  左のことばにいやな感じはない。「心得」にそぐう接待業者の親切がある。  左はセックスの話をした。女性器の部位の名称がすべて略される。略され、すべてに「ちゃん」がつく。「ちゃん」「ちゃん」と、左は早口で話し、その親切に対して私は、笑わねばならないと思うのだが、どこで笑うべきかわからない。  笑えない自分がひどく役立たずに感じられる。鉄人28号、不意に頭に漫画のロボットが浮かんだ。 「白川さんっていったっけ。絵描いてるんだって」  右が煙草に火をつけた。 「絵を描いてるお客さんは、そういえば、ぼくははじめてだな」 「お客さんのご職業は、どういったものが多いですか?」 「奥さんって人が多いよ。旦那さんといっしょにお店をやってるってかんじの奥さん。あとは自分だけでお店持ってる人かな」 「お金持ちの人ですか?」 「そりゃ、お金がないと来られないからね、ここは」  ブランデーのボトルをキープして十五万だという。 「こういうところへ来る女の人ってね、ブスはまずいないよ。男に相手にされないから金の力でホスト買いに来るんだろうって、知らない人は想像するかもしれないけど、逆なんだよね。男にさんざん貢がせたから、それに飽きて、貢ぐのがおもしろいって人が来るんだよ」  男性編集者と女性編集者がピアノの向こうの遠くのほうに見える。二人はピアノの上のキャンドルに照らされ、古いハリウッド映画のスチール写真のようである。 「白川さん、白川さんの一番好きな体位はなに?」  左が訊く。  私は自分が場違いなところにいることを痛感した。 「身体《からだ》は大きいのに胸は小さいから、それにあった体位のほうが好きでしょう」 「はい」  私の胸部のサイズは94センチである。胴は60センチで臀92センチ。身長は170センチ。身体は大きいのに胸は小さいから。この形容がいつも男性の口からは発せられる。女性は逆の形容をする。性差による形容の差に遭うたび私は、脚の寸法の狂った机に向かっている心地になる。 「大きいから男に抱き上げられるような体位は難しいよね」 「はい」  架空の机がぐらぐらして、私はそれを気にする。左も右も、どこか遠いところから話しているようだった。左右、すぐそばにいるのに、向こう側の、遠いところから話されているようだった。はい。私は答えた。はい。笑って答えた。はい。笑って答えていた。 「どの体位が好き?」  私はふたたび訊がれ、 「窓の月」  ふたたび笑って答えた。 「窓の月? それ、どんな体位?」  昨夜、私は男女の絵を描いた。CDのジャケットの絵だった。裸で抱き合う男女の写真を参考にした。裸体資料のファイルから写真は選んだ。それは何かの雑誌のきりぬきで、もとはいくつかの体位が紹介されたページだった。 「女の胸を真正面として見た場合に、それに絡む男の肌の露出の配分がもっとも美しい体位です」  窓の月、と体位の名前のつけられたその写真はきれいな写真であった。 「絡む男の肌。ずいふんはっきりと言うねえ、白川さんは」  右のホストは私の肩に手を置いた。  瞬時にして鳥肌が、ぶかぶかのブラウスの下でたった。叫んで逃げだしたくなった。だが私は全身がすくんで動けない。  眼球だけで男性編集者と女性編集者に叫んだ。二人はハリウッド映画のスチールのまま、遠いところでしゃべっている。 (担当はどちらですか? 担当はどちらですか? 担当の方、どうか、もうここで終わりにしてください)  私は右のホストにも左のホストにも、決していやな感じを受けたわけではない。話がうまくない私に、二人はとても親切にしてくれ、それを私はむしろありがたく感じていた。 「手をつないでいるところの写真も一枚欲しいんですけど」  カメラマンが言い、右のホストが私の手をにぎった。 (なぜ?)  私は自分にたじろいだ。膝《ひざ》が震えて全身に鳥肌がたったことにたじろぎ、汗を拭《ふ》くふりをして震えを隠した。 (こんなことで、なぜ?)  笑おうとした。くちびるが乾いて口紅ではなく砂がついているような気がする。  体育の時間のフォークダンス等を除外すれば、私の手をにぎった異性は二人だけである。  ひとりはプール監視員、そしてもうひとりが右のホスト。ただ、これだけの些細《ささい》な事実に震える自分の弱さを、私ははげしく憎んだ。 (手をつないでもらえることを光栄だと思え)  私は念じた。「ホストの心得」のように。懸命に念じた。  男性編集者と女性編集者は理想的なハリウッド規定の身長差で、なにかをしゃべりながら遠くに並んでいた。     * 「じゃあ、打合せのとおり原稿用紙一枚です。ファックスしてくださいね」  広い道路の手前で男性編集者は確認した。ごく短い感想文を私が書き、それをもとに彼が記事になる文章に直すのである。 「担当は、お二人ということでいいんでしょうか」  ようやく私は二人の編集者に訊いた。 「あら、わたしはただついてきただけだから。彼にファックスしてあげて」 「はい……あの……」  どういう感想文を書けばいいのだろう。とてもたのしかった、と書かなくてはならないのだろうか。それとも、もっとちがうことを書いたほうがいいのだろうか。ホストににぎられた手のなまあたたかみを、風にあてながら、ひどく扱いあぐねた。 「あの……」  私は男性編集者とすこし話しておきたく思った。さいしょに待ち合わせた喫茶店がそばにある。そこで話したい旨を伝えると、 「えー。忙しいんだよね、ぼく。すぐ帰ってよ」  彼はタクシー券を出した。帰ってよ、という声がとても大きく、私は反射的に後ずさりした。 「電車のほうがはやいから、いいです」 「あるんだから使ってくださいよ」 「い、いいえ。電車にします。電車でいいです。あまり出かけないからあまり電車に乗らないから」 「そう。じゃ、ファックス待ってますね」  二メートルほどの距離をあいだにあけて、 「今日はありがとうございました」  私は編集者に辞儀をして駅に向かった。  ひとつめの信号を渡ると、走って駅に向かった。帰ってよ、という声が追い風となり、私は短距離走のようなスピードで走った。  ぱたぱたっ、ぼたぱたっと、私のブラウスの袖《そで》が鳴る。  早く駅に着きたい。駅の、混雑したなかにまぎれこんで小さいひとつの点になりたい。     *  駅のホームで私は何度も手を洗った。  傲慢《ごうまん》なことだ。 (手をにぎってくれたホストの親切を仇《あだ》で返している)  すみません。口のなかで言い、私は手を洗いつづけた。 「おい、どうしたの?」  かがんでいる私の首に息がかかった。 「栗本くん……」  蛇口を閉めぬまま、上を見上げる。 「栗本くん、じゃないよ」  彼が蛇口を閉めた。 「走って階段かけあがっていくとき、呼んだんだよ。あんなにあわてて手を洗いたかったわけ?」 「佐代子といっしょ?」  立ち上がろうとして、立ちくらみがした。  栗本の肩につかまりかけ、  彼に触ってはいけない、  と思い、  柱をさがした。  柱があろうはずはなく、私の手は中空をきる結果になった。  栗本が腕を掴《つか》んだ。 (栗本くんが倒れる)  私は案じた。  私の重い身体《からだ》がよりかかっては彼は支えきれずに倒れてしまう。  懸命に足に力を入れて体重をかけぬようにした。 「平気だよ、ほら、だいじょうぶ?」  栗本は私の肩に手をまわし、私を立たせた。 「酔ったの?」 「いいえ。立ちくらみがしたの。すみません、ありがとう」  頬《ほお》が赤くなっていくのが自分でわかった。恥ずかしかった。栗本に支えられたことに、  今まで知ることのなかった心地よさを、  感じ、  感じたことを恥じた。 「ありがとう。佐代子は?」 「いないよ」 「じゃ、連れの方は……」  私はあたりをみまわした。 「いないよ。ばかだなあ、そんなに気をまわすことないのに」 「べつに気をまわしてなんか……。もし連れの方がいらしたらご挨拶《あいさつ》したほうがいいと思って」 「その、ツレのカタ、って言い方、やめてくんない? ツレのカタがイラシタラだって。ホテルとかレストランの支配人かなんかみたいだよ」  栗本が言い、私の口角は自然に上がり、自然に口が開き、はっは、と息が出た。学生時代から知己である関係の持つやすらぎが私の気持ちを洗う。 「だって、そうだろ。そういや、りっちゃんの今日のかっこう、白いブラウスに黒いスカートで、ホテルの敏腕女支配人みたいだよ。雑誌の取材かなんか?」 「まあ、そんなところ」 「久しぶりだね。もっとも俺《おれ》のほうは雑誌でときどきりっちゃんの顔を見るけど。偶然だな、こんなところで出会うなんて」 「偶然に、ふと会う、ということが私にもあるんですね」 「はあ? どうしたの、あらたまって」 「部屋のなかでひとりでやる仕事でしょう。だれかに会おうとすれば、呼び出して待ち合わせをする以外にないから……」 「そりゃま、そうだな。本日、出会ったのは、学生時代からの縁であろうか」  栗本も冗談めかして大仰な言い方をした。 「で、栗本くんはどうしたの? こんなところで」 「残業の帰りだよ。どっか行こうか」 「これから?」 「遅くなったら送っていってやる」 「…………」  私は咳《せき》をするふりをして栗本から顔をそらせた。頬が赤くなったのをまた感じた。  送っていってやる。  それは、まるで自分が、  弱々しくなった、  ような心地がして、どこか夢のようなことばだった。 「ちょっと歩くんだけどさ、いい?」 「いいよ」  私は駆け上がってきた階段を、栗本といっしょにゆっくりと下った。 「栗本くんはちょっと太った?」  久しぶりに会う栗本の顔は、以前、彼が持っていたシャープな頬のカーヴ・ラインをいくぶん崩して、まるみを帯びた肉が顎の周囲についている。 「やけ食いしたんだよ。失恋して」 「失恋? 前に電話で聞いた国内線のスチュワーデスさんのこと?」 「そう。別れたんだよ。なんかソリが合わなくなっちゃってさ」 「ふうん」  別れる。別れない。つきあう。つきあわない。そうした行為は私にはいっさい実感がない。そうした行為は、つねに私の、  向こう側、  に、あった。 「結婚するんだとさ」 「もう結納すませたって言ってた?」 「いや。ただ、決めたって言ってた」 「それなら、まだチャンスあるよ」  電話かけてあげようか、と言おうとして、私はやめる。  栗本が「まだチャンスがある」と思っていたとしても、今日はもう、自分の役割を休みたいと思った。  遅くなったら送ってってやるよ。いつもそう言われている女の人の側の  向こう側の世界、  へ、ほんのわずかな時間でいい。橋を渡りたい。住みたいなどと分不相応なことは言わない。寄り道でいい。 「まだチャンスがあるって? なんのチャンス? 気のまわしすぎだよ」  栗本はまた、ばかだなあ、と言った。私はくちびるを開かずに微笑《ほほえ》んでみせた。 (不潔なリアクションをしている) (分不相応な微笑み方をしている)  自分のことを汚らわしく思い、汚らわしい行為をさせた自分の脳を水道でじゃぶじゃぶ洗いたくなったが、寄り道、これを大義名分とした。 「栗本くんの顔は学生時代にはじめて会ったときからずっと好きだよ」  栗本の耳は頭蓋骨《ずがいこつ》にぴったりと平行に付いている。美人女優が長い髪をかきあげると、その耳が顔と垂直に大きく広がってついていることが、たまにある。ひどく醜く見える。  栗本の耳は落胆させることのない耳である。耳朶《みみたぶ》は厚すぎず薄すぎずゆるやかな曲面体を構築し、耳朶の下から、耳朶のゆるやかな曲面体とはうってかわったシャープな頬と顎《あご》の直線。顎の先端は日本人にはごくめずらしく、わずかではあるが割れている。 「栗本くんはきれいな顔をしている」 「それ、おごらせようって魂胆?」 「え?」 「いきなり、すてき、だなんてさ。俺、あせっちゃったよ、今」 「…………」  顔についての事実を述べることと、その顔を所有する人物について述べることとはちがう。  プール監視員はシャープなカーヴの頬を所有していなかった。顔一面に黒ずんだ脂性のにきびがあり、前歯の右一番と左の三、四番が差し歯で、差し歯の部分の歯茎は紫色だった。しかし、私は彼のとなりに立つとき、喉《のど》も胸も下腹部も足首もせつなく動悸《どうき》した。 「褒められたからには、これから行く店くらいならおごってやるよ」 「それはありがとう……」  私はなんとなく割り切れぬ気分になったが、  おごってやる、  ということばに酔った。 「栗本くんにおごってもらうのはじめてじゃないかしら」  学生時代、栗本と飲食すると、一円の単位まで二分割する支払い方法だった。佐代子をまじえて三人のときは、佐代子のぶんは彼が支払ったが。 「そう言わないでくれよ。俺ん家《ち》、貧乏だったからさ、学生時代はバイトしてやっとだったんだぜ」  栗本は奨学金で大学に通い、バイトして佐代子の飲食代を支払っていた。 「うん、えらかったよね」 「ほかのみんなはさ、会社に入ってからなんにもできなくなっていやだって言うけど、俺は会社に入ってからのほうが学生時代より自由に遊べてうれしいよ」 「そうよね。お金はやっぱりあるていどはないと困るよね」  私たちは自分たちの最近の仕事のことなどを話しながら道を歩いていった。 「あれ、休みだ。ごめん」  栗本が指さした先にシャッターの下りた店がある。 「ウィークデーだっていうのになんで休みなんだろう」  栗本はシャッターのそばに寄る。 『誠に勝手ながら本日は休業させていただきます』  貼《は》り紙がしてあった。  私は鞄《かばん》のなかから太いフェルトペンを出して、 『ほんとうに勝手ですね』  と、貼り紙に書いた。  いいぞ、と栗本は笑い、周囲を見渡すと、 「あそこにしよう」  バスの停留所に似た店を指さした。 「立ち食いそば屋?」  バスの停留所でなければ、そう見えた。 「一杯屋じゃないか?」  透明なガラス戸から中をのぞくと、椅子《いす》もない。二、三人の客がいた。ひとりは鳶《とび》職人がはくような、乗馬服のようなズボンをはいた老人で、ひとりは小さめの背広を着た五十代の男性、あとは日本人ではない顔の、しかしどこの国の人間かはよくわからない客である。全員、カップ酒を飲んでいる。 「あれを一杯飲んで行こう」 「うん」 「おごってやる。安あがりなデートだけど」 「とてもうれしい」  正直な、いつわりなき気持ちを私は伝えた。  カップ酒はひとりが四百五十円だった。 「ありがとう」  空腹に酒を飲んだせいもあり、頬《ほお》が上気している。とてもうれしい。 〈ここに来るお客さんは、男に貢がれるのに飽きちゃって、逆に貢ぐのがおもしろいって人たちだよ〉  右にいたホストが言っていた。〈貢がれるのに飽きちゃう〉贅沢《ぜいたく》な女性たちの行くところに、私は場違いにもさっきまでいたのだ。 「りっちゃん、今日、なんかあったの? ホームで出会ったとき、ちょっとへんだったよ。なんであんなに一生懸命に手を洗ってたの?」 「まごまごしてたの」 「まごまごしてた?」  私と栗本の靴音は歩道でぴったりと合っている。底のひらべったい彼の靴の、ふくみのある音と、ヒールのある私の靴の、かつかつした音。 「まごついてたの」 「手洗ったら、まごついてたの、落ちついた?」 「ちょっとは落ちついた。栗本くんに会ったし」  靴音がしなくなる。 「学生時代からのよしみ、っていいよね」  私は栗本のほうを見ずに言った。 (あのホストだって、もっと「よしみ」があったら手をつながれてもまごつかなかったのかもしれない) 「そうだね。いいもんだね」  ふくみのある靴音が先に二、三歩進む。  私はポケットから財布を取り出し、五千円札を抜いた。  先の靴音をかつかつした靴音が追いかける。 「栗本くん、これ」 「なに? これ」  靴音がそろう。 「五千円払うからキスしてくれませんか」  靴音がふぞろいになる。ふくみのある靴音だけが先へ二、三歩進む。かつかつした音はしなくなる。  靴音がしなくなる。  救急車のサイレンが通過する。  ふくみのある靴音が、二、三歩後退し、 「へんなことするんだな」  栗本は五千円をポケットに入れると、キスをした。     *  五日後、私は男性編集者に感想文をファクシミリで送信した。 「ここはイイ女が遊びにくる場所です」  二十字の枡目《ますめ》が二十行ならぶ原稿用紙の、十九行まではあたりさわりのないことを書き、最後の一行だけを暗喩《あんゆ》にした。 「なんだか、ちょっと沈んだかんじですね」  男性編集者は電話で言った。 「リライトするんでしょう?」 「ええ、まあ……。でも、写真まで沈んだ顔なんですよ。手をつないでるショットの、たのしそうなのが欲しかったんだけどなあ。あまりたのしくありませんでしたか?」 「……驚いたので……」 「そんな、手をつながれて驚くような年じゃないでしょうに。なにを、処女のようなことを。でも、三十過ぎた処女がいたとしたらグロテスクだろうなあ」  受話器から小さな針が、ははははは、ははははは、とこちらに撃ちこまれた。 「このまえの、ほら、××社の雑誌に載ってたイラスト、すごい官能図だったじゃないですか」 「写実的で官能的に描いてくれと注文されたからです」 「注文されたって描けない人には描けませんよ」  男性編集者は私を褒めてくれたのだと思う。私は挨拶《あいさつ》をして受話器を置いた。  置いて、すぐに栗本から電話があった。  だから、それは、たまたまである。  たまたま、私はため息をついたのだ。相手が栗本とわかったとたんに。  男性編集者との電話のやりとりが私に与えた、なにがざらついたものを、学生時代のよしみが、すこしはぬぐってくれたように感じたのだ。  そうすればすこしは気がおさまるの。  学生時代に、流行っていたあの歌の歌詞さながらに。 「栗本くん……よかった、電話してきてくれて……」  私はほっとして言った。 「…………」  栗本は黙る。ずいぶん長いあいだ黙ったのちに、つづけた。 「それ、つきあおうっていうこと?」 「え?」 「…………」  また栗本は黙る。 「もう会わないでおこう。会わないほうが二人の幸せのためだよ」 「…………」  今度は私が黙った。 「重っ苦しいんだよ。きみの愛情って重っくるしくて、ぼくはそれには応《こた》えられない」 「…………」  私はずっと黙っていた。  黙って、栗本の、いや、たぶん男という男の、女という女の、  向こう側にいる人間すべての、  彼らの、  自己に対するゆるぎない自信、  は、いったい何に基づくのか。  必死で解答を探していた。  たとえば、栗本のように貧乏であること。栗本のように足が短いこと。栗本のように三十過ぎても母親と暮らしていること。そして私が彼を愛していると疑いなく思うこと。なぜ、彼は恥じ入らずにいられるのか。 「五千円払うなんて、人が拒めないようにしてくるだろう。いやでもキスをするしかないようにするだろう」  重々しいんだよ、と栗本はくりかえした。 「そうですか」  私は電話を切った。 (いやいやキスをさせたことに対する謝罪はどうすればいいのだろう)  ずいぶん長いあいだ電話機の前に立っていた。 「すみません」  私は電話機に謝った。  向こう側へ渡る資格のない鉄人が、ひとときでも向こう側へ寄り道しようとした罰は、友人を失うことであった。 「すみません」  私はファクシミリに謝った。  父母を捨ててひとりで暮らす非情な鉄人が、向こう側を願ってはならないのである。  風呂場《ふろば》に行き、バスタブに湯をそそいだ。  湯の栓を小さめに開けてそそぐ。ゆっくりと湯がそそがれるようにした。  それから、描きかけの絵と画材が散らばった机の上と周辺を、  私は、  探した。  紙と絵の具、フェルトペンとマジック、写真集と雑誌、そんなものの山の中から、私は一つのドライバーを掴《つか》んだ。大きなドライバーである。  ドライバーを持ったまま、私は救急箱から鎮痛剤を出し、台所に行った。 「成人一回二錠」  指定量が指示されてある。  私は七錠を口に含んだ。ウイスキーで流し込む。ウイスキーを飲みながら、バスタブが湯で満たされるのを待つ。  そうすればすこしは気がおさまるの。  あの歌を全部うたおうとしたが、その部分しか思い出せない。 「いつくしみふかき、友なる主《イエス》は、罪、咎《とが》、憂いをとりさりたもう」  讃美歌は思い出せた。 「姦淫《かんいん》を願ったなら、それは姦淫を冒したのである」  私はぼんやりと口にした。鎮痛剤とウイスキーは私をぼんやりさせた。  ぼんやりと天井を見ているうちに目蓋《まぶた》を閉じた。  目蓋を開いたとき、天井がまわっているように見えた。全身が重い。にもかかわらず、空中に浮かんでいるようなかんじがする。  のろのろと床を這《は》うようにして、風呂場に行くと、湯はバスタブからあふれていた。  私は裸になり、ドライバーを持ったままバスタブにつかった。ずぶずぶと湯があふれて流れる。湯の中でドライバーの持ち方を変えた。本来、握るべきではない金属の部分をにぎった。ドライバーを挿入しようとした。破瓜《はか》しようとした。  それは困難な行為であった。  最初、湯が赤くなるのかと思っていたが変化はわからない。出血するというのは、私が想像していたよりもずっと少量なのだということを、はじめて知った。  バスタブから立ち上がろうとして、スムーズにはできなかった。壁のパイプを強く掴んで、立ち上がった。  湯はすぐに流した。  洋服を着て部屋の中央で正座した。うつむくと、床に水滴が落ちた。  私はソックスを脱いで、床の水滴を拭《ふ》く。また水滴が落ち、ソックスで拭いた。  また水滴が落ち、私は水滴の元栓をふさいだ。目にソックスをあてて。  もうこれで、処女という語にまごつかなくてすむ。 「処女でもあるまいに」  もうこれで、取材中に言われてもまごつかなくてすむ。     *  アスパラガスの天麩羅《てんぷら》と、しいたけの天麩羅が、皿に載せられた。 「れんこんを、また頼む? 大西さんはどうする?」 「頼む」  大西と私は、アスパラガスとしいたけとれんこんから衣を指で剥《は》ぎとった。指が衣のあぶらでべちゃべちゃになり、紙ナプキンが私たちのテーブルの上に積もった。 「天麩羅は服を脱がしてこそうまい」 「ほんと」 「同じ食べ方をする相手が見つかってよかった」 「ほんと」  私たちは黙々と半裸の天麩羅を食べつづけた。 「食べたいように食べたらいい」  黙々と食べている最中に、一回だけ大西はそう言った。     *  衣を剥がした天麩羅は翌日に胸やけを起こさせない。  描いた絵をバイク便のドライバーに渡してから、私はプールで二キロ泳いだ。引っ越した部屋の近くにあるこのプールは、会員制の施設である。入会金一万円、月額八千円。地味な運動施設で、すぐとなりに公園がある。  欅《けやき》の台地を、ほとんど手を入れることなく公園にしたような場所である。ぽつん、ぽつんとベンチが置かれ、かたちばかりのシーソーが設置されている。  暑くもなく寒くもない、うららかな陽ざしであった。  欅の葉と葉の隙間《すきま》から、きすの天麩羅の衣のような色の光が射している。風に揺れる葉は、公園の地面の、明るい部分と暗い部分をさまざまに変化させた。  私は水分を吸って重くなったタオルと水着のはいった鞄《かばん》をベンチに置いた。泳いだあと心地よく疲労した肉体に、欅の葉ずれの音と風が当たる。  黄色い帽子が木々の陰から現れた。近所の幼稚園児らしい。  黄色い帽子は公園を散らばって、やがてシーソーに四つが集まった。  左に二人、右に二人が乗り、シーソーは、ぎい、ぎい、と音をたてはじめた。音とともに、黄色い帽子と赤い鞄が上下する。  シーソーからややはなれたベンチにひとりだけ女児がすわっていた。 「みえちゃーん」  シーソーから呼びかけられると、女児は手をふる。 「みえちゃーん」  呼びかけられて、女児はまた手をふり、ふりつつも、徐々に徐々に、シーソーからはなれたベンチへ移動してゆく。  彼女は私のとなりのベンチにすわった。  こがはらみえ。  名札に記されている。  こがはらみえは、しばらくベンチにすわっていたが、ほどなくベンチからおりて、地べたにすわった。  鞄を肩からはずし、それをベンチに置いてファスナーを開ける。  小さな手がファスナーのなかに入り、いま一度出てきたとき、その手はなにかカードのようなものを掴んでいた。  カードは輪ゴムでゆわえてあり、それらをていねいにベンチに並べる。  テレビアニメーションの登場人物のカードと思われる。さして数があるわけではない。ただ並べて、こがはらみえはカードを眺めている。  私もカードを眺めた。カードには長い髪をポニーテールにした目の大きな少女の絵が描かれていた。 「×××××のカード、たくさん持ってるんだね」  私はもっとも流行っているテレビアニメーションの題名を言った。見たことはなかったが、たぶん×××××なのだろうと思った。 「ううん。たくさん持ってるのはミカミさんのカードだけだよ」  こがはらみえは、いきなり固有名詞を口にしたが、それがそのアニメーションの登場人物であることは明白であった。 「ふうん」  私は、こがはらみえのうしろに立って、ミカミさんを眺めた。ミカミさんはどのカードのなかでも勇敢に闘っている。 「ミカミさん、かっこいいね」  こがはらみえに媚《こ》びたのではなく、私自身、ほんとうに、ミカミさん、という少女がかっこいいと思ったのでそう言った。 「うん。みえは一番、ミカミさんが好き」 「ミカミさん、闘っててかっこいいね」 「うん」  こがはらみえは、満面の笑みを浮かべて私をふり向いた。  彼女の顔は、口のまわりに髭《ひげ》が生えているように見える。うぶ毛をまったく手入れしていない幼児の肌である。 「ミカミさんはね……」  こがはらみえは、ミカミさんがどのような活躍をしたかを私に話した。いかなる困難苦難にも立ち向かって闘うミカミさんの物語を、私はたいそう感動して聞いていた。 「それから?」  私は、こがはらみえに乞《こ》うてつづきを訊《き》いた。 「それからは来週やる」  こがはらみえは洟《はな》をすすった。私はティッシュを渡した。 「ミカミさんじゃないカードも見せてあげようか」  こがはらみえは小さな手を、また、鞄に入れ、べつのカードを出してきた。 「輪ゴムをとらなくっちゃならないの」  彼女は眉間《みけん》に皺《しわ》をよせて丁寧にカードから輪ゴムを外し、ベンチに並べた。二枚しかなかった。  一枚はミカミさんと同じくらいの年齢の少年であった。 「この人は弱い人」  こがはらみえはカードの少年を、ぱん、とたたいたので、私もたたいた。すると、こがはらみえは、けたたましく笑った。うっすらと黒いうぶ毛に取り囲まれた口が大きく開き、歯と歯茎が無防備な幼さで剥《む》き出しになり、喉《のど》の粘膜まで見えるほど、彼女はけたたましく笑った。  そして、 「こんどクジャクの羽をあげるね」  と、また少年を、ぱん、とたたいた。 「じゃあ、この人はだれ?」  少年といっしょに輪ゴムでゆわえられていた、もう一枚のカードを、私は指した。 「おキヌ」  こがはらみえは教えた。 「おキヌはどんな人?」  私が問うと、 「飛ぶ人」  彼女は答えた。 「もう帰るね」  こがはらみえは、また丁寧にカードを輪ゴムでゆわえ、鞄に入れると、 「さようなら」  私に手をふった。 「さようなら」  私も手をふった。  欅の葉が風に揺れ、私はベンチに腰かけたままでいる。シーソーの音は消えていた。なんという名前かわからない鳥が枝から飛び立ち、きすの天麩羅の衣のようなハニー・イエローの陽光が膝《ひざ》にそそいだ。  第六章  私は自分の卑しさを恐れていた。  他人の家に居た長い時間。また、たとえ実家といえどもよその家のように感じていた、その長い時間。長い時間は私の肌に、たえず他人の顔色を窺《うかが》う卑しさをしみこませたのではないかと、恐れていた。  卑しい私が男を憎んでいたのかもしれない。憎んでいるような女を、男はもっと憎むだろう。  三十歳になってから、こぎれいな酒場にふと入れるていどの経済的余裕ができた。ひとりで食事をかねて飲んでいると、たまにとなりもひとりで来た男性客であることがある。そしてたまに、どうということのない季節の話題をかわすことがある。そのうちに、申しわけなくなる。女優や歌手やタレントやモデルや、個人的な女性の知人を思い出す。A子ならA子としよう。そして、もしここにいるのが、彼のそばにいるのが私ではなくA子であったなら、彼はもっとたのしいだろうにと思う。彼の時間を自分が奪っているように思い、申しわけなくなる。 (絵を描けるとは幸運だ。絵を描いて生計をたてたいのにたてられない人はたくさんいるんだから)  私は紅茶を匙《さじ》でかきまぜた。大西はまだ来ない。  天井の高い喫茶店である。この喫茶店は先日、雑誌の取材を受けた店だった。     * 「白川さん、もうちょっと顔を上に向けてくれる?」  カメラマンは私の顔に四角い測定器を当てて明るさを調べた。  三脚に取り付けられた傘。ばん、と音をたてて円形になる反射ボード。  喫茶店にいあわせた客が、ときどき、こちらを見る。 「×××の撮影よ」  雑誌の名前がささやかれる。女性ならだれもが知っている雑誌が、テーブルには置かれている。 「白川さん、またうつむく。こっちを見て笑ってよ」  カメラマンに言われ、私は彼の示す方向に顔を向ける。  このカメラマンには、すでに何度か写真を撮られていた。雑誌の取材において、すでに面識のあるカメラマンに当たることがときどきある。 「でも、ぜんぶ同じカメラマンだなんてことは、そんなにはないんですよ。めずらしいわ」  今日の記者は言った。 「そうなんですか」  私は彼女のほうへコーヒーカップをよせる。 「あ、どうも」  彼女はカップの位置がカメラのアングルの邪魔にならないかどうかを気にする。 「気にしないでいいよ。邪魔になるときはそのとき言うから。ふたりでしゃべってて」  カメラマンはレンズをのぞきこんだまま言った。  かんじのいい人ですね、と、取材をする記者はみな、そう彼を評していた。私も、そのたびに記者に同意してきた。  シャッターの音の間隔は、さいしょは短く、しだいに長くなってゆく。長くなったころ、記者は本題に入りはじめた。  今回の取材も恋愛特集にさいしてのものである。 『セクシーな魅力で恋の勝利者になろう』  記者からあらかじめ送信されてきたファクシミリ用紙には雑誌の特集のコピー文がそう記されていた。 「セクシーな女性ってすてきですよね」  記者は言った。 「そうですね」  私は言った。 「男に媚《こ》びたセクシーさは同性から見るといやらしいけれど、同性から見てもすてきだなあって思えるセクシーな女性っているじゃないですか」  記者は言い、 「白川さんの対男性へのアプローチの秘訣《ひけつ》をすこしお聞かせ願えませんか」  彼女はノートの上でペンをたてて待った。 「…………」  私はずっと黙っていた。わからなかったのだ。 「わかりません」  五分以上も黙った末に、私は言った。  記者は笑った。 「いやだ、そう堅苦しくお考えにならなくてもいいんですよ」  カメラマン同様、彼女も〈かんじのいい〉記者である。私よりひとつふたつ年下だろうか。可愛《かわい》らしい犬のブローチを襟につけている。 「たとえば、白川さんが今つきあっている男性と知り合ったばかりのころはどういうふうに苦労したとか、そんな話を聞かせてくださいよ」  彼女のノートの上でペンがたつ。 「……すみません。わかりません」  私はわからなかった。本当にわからないのだ。 「じゃあ、白川さんはどんな女性がセクシーだと思われます?」 「黒いブラジャーとパンティのかっこうで赤い口紅を塗っている人」  私が言うと記者はまた笑った。 「そういう女の人のイメージってふつう同性から嫌われるでしょう? 男に露骨に媚びて、みたいな反感を持たれて。どうしてまた?」  彼女に問われ、 「清廉だから」  私は言ったが、小声だったので彼女には聞こえず、カメラマンが話しかけてきたので私の答えはそのままどこかへ流れて行ってしまった。 「男だってイヤだよ、そんな女。白川さん、認識あらためたほうがいいよ」  カメラマンはかんじのいい話し方で言った。 「そりゃ、『プレイボーイ』や『ペントハウス』のグラビア見てるときはそんなのもいいのかもしれないけどさ、実際には男って直球は苦手なんだよ」  彼の言うことが、私は痛いほどわかった。だが、わかる以上に男という男が許せなかった。 「なぜそんなに男が直球を怖がるのか、私にはそれが許せません。あまりにも弱すぎると思います」  そして、その直球をずっと投げてもらえると思える傲慢《ごうまん》さが許せない。明日にはもう投げてはもらえないかもしれぬと、すこしは不安にならないのだろうか。 「直球は、もっとも打ちやすいのに、そんなものも怖がっているようでは、あまりにもめめしい」  記者よりもカメラマンのほうが会った回数が多いせいか、私は彼に対していくぶん常軌を逸した強い語調になった。ははは、と彼は笑った。 「えらいんだなあ、白川さんは」  皮肉めいた言い方ではない。彼はほんとうにかんじのよいカメラマンだった。 「高校のときの先生からも同じことを言われました」 「まさか先生にも、男はめめしい、って怒ったんじゃないだろうね」 「そうじゃないけど……」 「きみ、知ってる? 白川さんはね——」  カメラマンは記者の腕を軽くたたき、 「——前の取材では、すごいこと言って相手の女性記者を怒らせちゃったんだよ」  と、彼女も会話に参加させる心づかいを見せる。 「え、なに? なんです? なにをおっしゃったの?」 「子供を産む人はふしだらだ、なんて言い放ったもんだからさ、もう、たいへんだったよ」  彼は手際よく前回の雑誌の取材のようすを彼女に話して聞かせた。やはり女性雑誌の取材だったこと、テーマが「恋愛至上主義」だったこと、相手の記者が一児の母だったこと。 「その記者はもう、こめかみをピクピクさせてたよ」 「ええっ、そんなこと本当におっしゃったんですか?」 「言ってないわ。そんなことぜんぜん言ってない」  私は彼女よりも彼のほうを見た。 「言ったよう」 「言ってない。セックスするのは基本的にふしだらなことだと思う、って私は言ったの」 「ちょっとちがうだけじゃない」 「だいぶちがうわよ」 「そうかなあ。未婚の母同盟の人に聞かせたらいっせい攻撃にあうようなこと言わなかった? なんで子供を産むんだ、って」 「言ってない。子供を育てられる状況ではなかったのに、なぜ避妊もせずにセックスに応じられるのかわからない、レイプや相手の男性に騙《だま》されたのでないかぎり避妊できるはずって言ったの」  妊娠してから後に、出産を選択したことについては私は何ら触れなかった。 「未婚でも育てられる力がある人は子供を作ればいいと思う。私が言ったのは、子供が欲しい意思のない人が妊娠する前の段階のことよ」  私は記者に、前の取材で見せられた女性読者からの手紙の話をした。二十四歳。交際歴三年の相手は無職同然でセックスのときに避妊をしてくれず不安で別れたい、と書いてあった。 「それなのにセックスに応じられるのがわからない。避妊もせずにセックスをつづけるのがわからない。そう私は言っただけです、手紙の女性は、結局、ふしだらなんだと思う、とも言いました」 「なるほどねえ……」  記者はペンをノートの上にたて、 「白川さんの発言の背景はよくわかりました」  そして、ペンをテーブルに置いた。 「でも、男と女って、そういうことがすごく多いんじゃないのかしら。理屈じゃないんですよ、きっと……」 「そうだよな。あのときは考えてなんかいられないんだよ。それにさあ、男女って身体《からだ》が呼び合うってことがあるんだよ。だから面白かったりかなしかったりするんじゃないの?」 「どうして手紙の彼女をかばうの?」  私は彼と彼女に訊《き》いた。 「いえ、かばってるわけじゃないんですよ、べつに……」 「ただ、そんなもんなんだろうな、って思うだけだよ」  彼女と彼は私を見た。 「それを、ふしだらと呼ぶんじゃないんですか。どうして自分を律しないの」  私は二人に言った。 「律するものじゃないでしょう、恋愛って。プログラミングするものじゃない」  彼女は微笑《ほほえ》み、 「律せるんだろうな、白川さんは。えらいなあ」  彼も微笑んだ。  二人はかんじがよく、私はもう何も言わず、 「自分でも自分のことを強いと思います」  微笑んだ。     *  二人とは駅の改札口で別れた。  二人が駐車場のほうへ歩いていくのをしばらく見ていた。それから、私は改札口からはなれた。  この駅は私の部屋のある町の駅ではない。同じ沿線の、ずっと都心寄りの駅である。今までに三、四回、降りたことがある。  病院へ行くつもりだった。  最近、いくぶん気がかりなことがあった。いや、最近ではないのかもしれない。もうずいぶん長いあいだ、気にしていたような気もする。  会社組織に属さぬ職業であるために、肉体を定期的に検診することがなかった。避けつづけるわけにもいかないだろうと思い、病院へ行くことを決めたのだ。  病院はこの町にある。そのため、取材も自分の住む町ではなく、この町に変更してもらった。  私は病院への道順などをメモした紙を鞄《かばん》から取り出した。  電話帳から選んだ病院である。その病院名が私の目をとめさせた。  マタイ産婦人科。  電話帳の藁《わら》色のページのなかに、それは、あまり大きくなく、あまり小さくない罫線《けいせん》で囲まれて記載されていた。  院長の名前が間梯《またい》修司。変わった名字である。 (だから片仮名にしたのだろうか……)  空は曇っている。  私は駅前のにぎやかな商店街を抜けてマタイ産婦人科へと向かった。  診察を終えての帰り道は、商店街とほぼ平行して駅へと向かう遊歩道を歩いた。  間梯修司は私に病名は卵巣|嚢腫《のうしゆ》であると告げた。そんなに心配することはありませんよ、このまま大きくならなければ放っておいてもいいものなのだし、なったところで手術すれば治る、へえ、水泳をやってるの、ええええやっていいですよ、適度な運動は何にもいいんですよ。このようなことを言った。親切な院長だった。  私は歩いた。  遊歩道にはところどころに植え込みがあり矩形《くけい》の札が針金でとりつけてある。札には植物の名前が記されている。何々目、何々科まで墨文字でていねいに記されている。 (だれが書くのだろう。区の学芸員みたいな人がいるのだろうか……)  墨文字の記された札は白く塗った木製のものである。その質感は、小学校の百葉箱を思い出させる。  小学校四年のとき、理科委員だった。週に二回、百葉箱の周辺を竹箒《たけぼうき》で掃いた。  そのころ、私はまだ初潮を迎えておらず、生理というものがやがて自分にもやってくるという知識もなかった。父も母もコートネイさんも松子先生も性に関することは何一つ口にしなかった。  私は遊歩道をのろく歩いた。  そのうちに立ち止まった。 「なんでやのん……」  くちびるをごくわずかにだけ動かした。  卵巣嚢腫という病名への不安は、間梯院長の親切さが癒した。生死にかかわるような病気でないことを幸いと思う。  ただ私は、金属の医療器具に衝撃を受けていた。性器を照らす照明器具の微温に衝撃を受けていた。足を上げて股《また》を開く行為に衝撃を受けていた。  遊歩道に立つ私の股間《こかん》にはマタイ産婦人科で挿入された金属の異物感がはっきりと残っている。  その感覚をかなしいと思うことを、はたして私は許されているだろうか。屈辱的だと思うことを、私は許されている女だろうか。五千円払って相手の男にいやいやキスをしてもらうしかない女が、股間に残る冷たい金属の異物感をかなしいと思うことなど、分不相応ではないか。  私は奥歯と奥歯を懸命に噛《か》みあわせた。力いっぱい噛みしめた。  母親が切ってやりたいと言った頑丈な肩幅と頑丈な手足には強さだけが似合うのだ。日光に剥《は》げた南洋の人形のような目に似合うのはぜったいに涙ではなく、滑稽《こつけい》さなのだ。  私が雑誌でTVで恋愛相談を受けること、これ以上の滑稽はない。  空は曇っている。遊歩道にまた植物の植え込みがあった。アカネ科・クチナシ。 「私は幸せ」  クチナシの花言葉を声に出した。     *  大西はまだ来ない。  九時の約束だったが、もう十時になる。 (どうしよう。店が閉まってしまう)  今日はパスタを食べることになっている。大西はこの町にある店に〈自信作〉があるのだと言っていた。  パスタのことを考えながら、私はテーブルに頬《ほお》づえをついた。  喫茶店には陽気な音楽が流れている。あのむ じゅすぅぃ あのむ。じゅすぅぃ あのむ。軽快に繰り返される歌詞。 (Je suis……Je suis の次はなんて歌ってるのかな)  じゅすぅぃ あのむ。じゅすぅぃ あのむ。 (あのむ、って何なんだろう)  あのむ? (ちがう。冠詞からリエゾンしてるんだ)  あん おむ。un homme, Je suis un homme. わたしは男だ。  Je suis un homme. Moi aussi. 男なのだ、わたしも。  歌詞は陽気に繰り返された。 「悪い」  私の肩を、ばん、と大西がたたいた。喫茶店を出た。 「店、閉まっちまったな、あんたの部屋で食べよう」  大西から言われ、私の頭から陽気な歌詞が抜け、 「どんなパスタにする?」  全意識、全細胞はパスタにだけ向く。  鳥のがらでスープを取り、それで納豆をあえて薄口|醤油《しようゆ》を加えたソース。  しいたけと人参と小えびとピーマンを細かく刻んでオリーブ・オイルで炒め、そこに赤身率90%の牛肉ミンチを加えてケチャップと昆布だしのスープでしあげるミートソース。  塩あじに茹《ゆ》でたパスタにかける、にんにくとあさりをこんがりと焼いただけのソース。  ほうれんそう入りのパスタにあう、カテージ・チーズとカマンベール・チーズを主要ベースにしたソース。  過去に作ったいろいろなパスタの味が、次から次へと、舌や喉《のど》や口蓋《こうがい》や歯茎の裏によみがえり、どんなパスタにするか、と大西に尋ね返した時点で、もう唾液《だえき》が口内に湧《わ》いた。私は自分のくちびるを自分の舌で舐《な》め、ソースの味を想像して、目の焦点が定まらなくなった。パスタのつけあわせも想像していた。  舌と下腹部がひくひくとしびれるようになり、顎《あご》の骨の蝶番《ちようつがい》がゆるみ、くちびるが濡《ぬ》れてすさまじい食欲に襲われる。リブ編みの、ぴったりしたシャツを着た胸部が大きく上下しているのが自分でもわかった。 「どんなパスタにしようか?」  私はパスタのことを考えた。 「口が半開きになってる」  大西の声が耳に流し込まれて、私は目の前にある大型コンビニエンス・ストアの店名表示照明を見た。 「ここでそろう物を使って料理したんでいいさ」  コンビニエンス・ストアに寄った。 「できるだろ」  大西はパスタならなんでもいいと言う。 「腹がへった。煮込むのに一時間なんてもんはやめてくれ。早くてうまくて安いもの」 「早くてうまくて安くて、ビタミン、ミネラル、たんぱく質、炭水化物が含まれているものにする」  18ミリのパスタ、ベーコン、パセリ二束、トマト、キゅうり、なす代、合計千七百七十六円を支払おうとすると、私の手首を大西が掴《つか》み、 「いい。払わなくて」  払わなくていい。大きな声ではっきりと言った。 「これから作るんだぜ、あんたが。俺《おれ》は手伝わん」  手伝わないと断言する繊細な気づかいに、 「ありがとう」  私は心から感謝した。申しわけなさではなく。     *  六畳のリビングは台所との仕切りがスライド・カウンターになっている。  私は台所に立ち、大西はカウンターに向かってすわった。 「すわるもん、これだけ?」  リビングを見渡す。 「描いてる部屋にもう一個あるよ」  八畳の絵を描く部屋、四畳半の寝る部屋は引き戸のために大西からは見えない。 「ここには、これだけ? この、学校にあるみたいな椅子《いす》だけ?」 「あら、それ、ほんとに近所の中学校の校庭から、夜中に拾ってきたの」  現在ではめずらしい木製の椅子である。 「ひとりで?」 「ええ。いつも門が閉まっているのに、なぜかその夜は門が開いていたの。絵の具に砂を混ぜてみようとして、夜中に外を、砂はないかなあって歩いてたの。それでなんとなく入ったのね。そしたらゴミ袋の山の横にその椅子もあったのよ。持ってみたら、ちょっと重かったけど、途中、休み休み、運んだの」  部屋の中に入れる前に、椅子を消毒用エタノールで拭《ふ》いた。 「背もたれがあっていいでしょう?」 「いいかもしれないけど、でも、この椅子だけなんだな、ここにあるのは」 「テレビとゴミ箱があるじゃない」  28インチのTVと、そのTVの入っていた段ボール箱でつくったゴミ箱。六畳にはそれだけがある。 「カーテンもない」 「埃《ほこり》がたまるじゃない。坪庭の前がブロック塀だから見えないよ。裸でいたって平気」  風呂《ふろ》から出たときに裸でここにいることもある。もし、私の裸をどこからか見てしまった人間がいたとしても、 「ぜんぜん平気よ」  と、私は言った。 「ただの物体に見えるだけよ、そんなの」  そして、もし、興味を持って私の裸を覗《のぞ》き見してくれる人間がいたとしたら、 「暴力を加えられるのでなければ、ただ見ているのなら、光栄なことじゃないの」  覗いた部屋に私ではなく、一回の撮影が五百万円のモデルがいたほうが、窃視者《せつししや》には幸運である。私は窃視者の不運である。  私は手を洗ってコンビニエンス・ストアの包みを開けた。 「他人のために電話をかけてやる役割よりは光栄だってこと?」  大西はTVのスイッチを入れた。 「そうね。そうよ。そういう役割はたいへんだわ」 「そうだな。たいへんだろうな」  TV画面は映画だった。 「あ」  私は短く叫んだ。  映画は、同級生のチケットを盗んだ日、地学の教師とカレーを食べた日に見た映画である。 「見たい? この映画?」 「べつに」 「見たいんだろ」  大西はそのチャンネルにして、椅子にもどった。 「見たいんだよ」 「じゃあ、見たいわ」 「この映画にしといてやるから作ったら?」 「作るわ」  大きい鍋《なべ》と小さい鍋にそれぞれ、水を入れる。火は中火。すると、小さい鍋のほうがすこしはやく沸騰する。  沸騰するまでのあいだに、パセリ二束とトマト二個ときゅうり一本となす一個を洗って水切りをする。トマトには切れ込みを入れる。  トマトに切れ込みを入れたころに、小さい鍋が沸騰するから、そこにトマトを入れて湯むきをし、笊《ざる》にあげる。  小さい鍋にふたたび水を入れ、中火にかける。  小さい鍋の水がふたたび沸騰するまでのあいだに、手早くベーコンを小刻みにする。  小刻みにし終わったころに、大きい鍋が沸騰するから、そこにパスタを二人前、入れてくっつかないように右手で箸《はし》でかきまぜながら、左手でフライパンをコンロにかけ、熱する。  熱したフライパンにベーコンを入れ、ベーコン自体の油分《ゆぶん》でベーコンを左手で炒めつつ、右手でパスタをかきまぜる。  フライパンの火を弱める。パスタの鍋の火も弱める。コンロからはなれて、手早くパセリをみじん切りにする。  みじん切りにし終わったときに、フライパンのベーコンを再度かきまぜる。ベーコンは焦げ目がつきかけている。そこにパセリを入れる。ベーコンに塩分が多く含有されているため塩はなし。パプリカとブラック・ペパーのみをふる。ベーコンとパセリを左手で炒めつつ、パスタもかきまぜると、パスタはしんなりしはじめるから、火をとめて鍋に蓋《ふた》。  手早くきゅうりを竹の子型に、なすを輪切りにする。し終わったころに、小さい鍋が沸騰するから、そこへ輪切りにしたなすを先に入れる。  なすに火が通るまでの短いあいだに、フライパンに湯むきしたトマトをいれ、左手でトマトをつぶしつつ、右手できゅうりを小さい鍋に入れる。  トマトはすぐにつぶし終わるから、そこで小さい鍋の火をとめ、なすときゅうりを笊にあげる。水気を切ったら、それを小鉢に盛り、薄口|醤油《しようゆ》を少々かけて熱いうちにパルメザン・チーズをかける。  フライパンのベーコン、パセリ、トマトにもかくし味として薄口醤油を少々。火をとめる。  そのときちょうど、蓋をした大鍋のパスタが食べごろに軟らかく、かつ、コシもある硬さになっているので、笊にあげて紅花オイルを少しからませ、皿に盛り、ベーコンとパセリとトマトのソースをかける。  そのとき、熱いなすときゅうりにかけたパルメザン・チーズがほどよく、なすときゅうりにくっついてからまっている。  この手順で作れば、ソース作りとパスタ茹《ゆ》でとつけあわせは、全部同時にできあがる。全部同時にしあげる合間を縫って、大鍋と小鍋とざるとまな板を洗っておくから、食後に洗うのは皿二枚と小鉢二個ですむ。  ベーコンにはたんぱく質、パセリにはレモンの数倍のビタミンCとビタミンAと繊維質、トマトにもビタミンAと繊維質、パスタには炭水化物、紅花オイルにはビタミンEが、それぞれ含まれているから栄養素のバランスもとれている。 「十五分」  カウンターにパスタとそのつけあわせを出したとき、大西は腕時計を見て言った。 「すごい。オードブルもメイン・ディッシュも台所かたづけも同時完成で十五分だ」 「早い、うまい、安い、各種栄養素クリアー、よ」  私は冷蔵庫のワインとグラスを持って大西のとなりに立った。 「椅子を持って来るわ」 「ここにすわったらいいよ。この椅子、でかいから」  大西が尻《しり》をずらしたので、私と大西は木製の学校椅子に二人で腰かけ、乾杯をした。 「どこでおぼえたの、このソースの作り方?」 「ある日、冷蔵庫にあるもので考えた」 「最高だよ」  ソースの味を大西は褒め、 「うれしいわ」  私は受けた。 「大西さんがはじめてよ、私が料理するのを看破《みやぶ》ったの」  九回も日にちをあけず食事をするのも、彼がはじめてである。 「大西さんといると申しわけないという、へんな気持ちが一度もおこらないわ」  私はパスタを頬《ほお》ばりながら、ワインを飲む。TVには私の嫌いな女優が出ている映画が映っていた。  無造作に髪をかきあげながら曇り空のテラスで中年の男とワインを飲んでいる。襟ぐりの大きく開いたセーターを素肌に着ていた。セーターはかぼそい首と肩をいっそう神経質に見せる効果がある。  傷つきやすそうな瞳《ひとみ》とあどけないそばかす。感受性の鋭そうな薄いくちびると繊細な脚。 「一生、傷つくことはない」  この女優を見るたびに、私は思う。  傷つきやすそうな、繊細な、彼女を、人々は注意深く扱うだろう。弱々しい肩が折れぬよう、かぼそい指が折れぬよう、鋭敏な心が泣かぬよう、注意深く注意深く扱う。かくして彼女は一生を安泰に過ごす。世界が認めるところの「病的なまでに感受性が鋭い少年のような少女のエロス」で獲得した彼女の地位は、一生、安泰だ。 「こいつにはこいつの悩みがあるさ」 「どんな?」 「知らん。そんなことは関係者以外知らんだろうが」 「実際のこととはちがうのよ、私が言ってるのは。象徴としての、この女優のことなの」 「象徴なんかどうにでもなる」 「ならないわ」 「なる」 「ならない」 「なる」  大西はパスタにフォークを刺した。節の骨が張った指でフォークは掴《つか》まれ、フォークを回すと甲の骨が、ひとさし指の下から中指の下へ、どく、どく、と浮き出る。  パスタがフォークにからみつき、彼の口に運ばれる。赤いトマトの汁がくちびるを濡《ぬ》らす。  私は茄子《なす》をフォークで刺した。茄子の黒く照り光る皮をフォークの金属がぶちっと破る感触が指に伝わり、皮の下のぐにょぐにょになった果肉が容赦なくフォークで刺される。口内に茄子特有のえぐみとパルメザン・チーズの風味がひろがり、そこへワインをそそいで呑《の》み込む。  ワインに遅れず、すぐにパスタを口へ。ベーコンの焦げた苦さとトマトの甘さ。パセリの渋みと紅花オイルのなめらかさ。それを醤油が淡泊に味をつけており、それらすべての匂《にお》いを嗅《か》ごうとして、すすり泣くように息をした。 �いいわ。すごく……�  TV画面の下に字幕が出、繊細な女優が口を開ける。  私は彼女の性器を想像した。この女優は私生活において双子の女児と双子の男児を出産していた。二回の結婚だが二度の出産ともに双子であったことがニュースになったのでよくおぼえている。  傷つきやすい繊細な少年のような少女のエロスを持った彼女の性器がめりめりと広がって裂け、裂けた肉襞《にくひだ》の奥から、二個の小型の人間が連続して出てくる光景を想像した。 �好きだ……�  中年の男の後頭部の上に字幕が出、男は彼女の首に口をあてる。  私は彼のペニスが医学辞典の図解のようになっている錯覚を抱いた。彼のペニスと二個分の小型人間の大きさを比較すると、女優の性器はよりいっそうめりめりと広がった。 「気持ち悪くなってきた」  私がワイン・グラスを置くと、 「水をたくさん飲めばいい」  大西は勘違いをして、ミネラル・ウォーターのガラス瓶を私に差し出した。私は反射的に瓶を受取り口に当てた。 (気持ち悪いというのは、お酒のせいとはちがうのよ)  言おうとしたが、それより先に、大西が、 「空きっ腹にワインを飲んだからだ。水をたくさん飲めばいい」  と、瓶の底を持って私に水を飲むことを強制した。  ガラスの瓶の細長い先端が暴力的な突起物となって私のくちびるをまくり、深く挿入されてくる。  突起物から液体がゆっくりと、かたまりのようになって喉《のど》に注入され、私は眉間《みけん》を寄せて飲んだ。 「んぐ……」  私はこもった息を洩《も》らし、うまく飲めなくなり、口から液体はあふれそうになる。  苦しくなり、さらに眉間を寄せて、瓶を持った大西の肩を小突くのと、口からそれがあふれるのとは同時で、 「残らず飲めよ」  大西が手で私の口をふさぎ、液体が流出するのを防ごうとしたのとも同時だった。 「もう、許して」  私は顔をそむけた。 「無理よ。そんなに一度に飲めないわ」  ミネラル・ウォーターの瓶を遠ざける。 「気持ち悪いって言ったのは、べつにワインで気持ち悪いっていったわけじゃないの。この映画を見ていて気持ち悪いって言ったの」 「なんだ、そうか。まだこの女優のことを気にしてたのか」  私は黙ってしまい、大西はたくましく食べつづけた。ものを噛《か》み、啜《すす》り、飲む音が、映画のフランス語とあわさって、じゅるじゅると六畳にしみた。 「そんなにこいつが怖いか?」  大西はフォークを置いた。 「怖い?」 「そうさ」 「怖いなんて言ってないわ」 「同じだよ」  大西は私が残したミネラル・ウォーターを飲み干した。 「なにがそんなに怖い? こいつがいったいあんたになにをするっていうんだ?! 画面から手をのばして食い物を奪ってくとでもいうのか?」 「ええ、そう。そうよ」 「馬鹿な」  大西は冷蔵庫を勝手に開け、二本目のミネラル・ウォーターに直接口をつけて飲んだ。 「奪《と》れよ」  TVに向かって大西は、ミネラル・ウォーターのガラス瓶を持った腕をのばした。 「奪れよ。奪れるっていうならこの瓶、奪ってみろよ」  画面で男女は「哲学的に」ミルクを互いの身体《からだ》に塗っていた。 「ほら、奪れやしないさ」  大西は私をふり向いて言った。  私は大西の手から瓶をとって水を飲んだ。 「この映画を撮っているときね、主演の二人は恋人同士だったの」  二度目の離婚のあと、この女優が恋人にしたのはこの俳優だった。 「それで?」 「二個ずつ小型人間を出した強靭《きようじん》なヴァギナにペニスを挿入するのはどんな気分なの?」  二度の結婚。二度の出産。二度の双子。また新しい恋人。 「しかも自分ではない、別の男の精子がいっぱい撒《ま》き散らされたヴァギナ。別の男の精子を受精して作った小型人間が二個組になって二回も通過したヴァギナにペニスを挿入するのはどんな気分なの?」  私は大西に問うた。 「男はそんなことはぜったいにわからん。無理だ。自分でガキを生めないから想像できない」  大西の答えは私の手からフォークをにぎる力をなくさせた。 「ペニスなんてすごく鈍感なもんなんだ。数の子、巾着《きんちやく》なんて俗に言うけど、そんな差は全然わからない。指|挿《い》れてわかるだけさ」  鈍感ではないと信じたいと男が願っているにすぎないと、大西はつづけた。 「コンドームだって、ほんとはコンドーム自体が嫌なんじゃなくて、勃《た》たせる集中力を妨げるから嫌なんじゃないかって俺《おれ》は思う。でなきゃ、そんなもんをつけてる自分が嫌なんじゃないかってさ。もし知らないうちにつけられてたら、コンドームして挿れるのと、しないで挿れるのと、ほとんど感覚の区別ができないんじゃないかって思うほど、鈍感なんだよ、アレは」  さ、うまいパスタを食べろ、と大西は言った。 「なんて言やいいのか、俺はようわからんが、アレはもっと雰囲気で勃つんだよ」  大西はTVのほうを見た。 「何人他の男のガキを産んでようが、この女にはこの男を勃たせる雰囲気があったんだろ、それくらいペニスなんて鈍感なもんなんだよ」  幻想。TVを見ながら大西がつづけた脈絡の整然としない会話のなかには一度だけ、この語が、挿入された。  私は女優の前で泣く男優を見ていた。彼は自分のペニスと二個組の小型人間の大きさの比較など永遠にしない。できない。不能にならぬための牡の防衛本能と、不能にさせぬための牝の防衛本能。  ♂と♀の種の保存の本能の、絶対的なエネルギー。 「大西さん」  私は大西の袖《そで》を引いた。 「うん?」 「昨日ね、大西さんとは会わなかったけれど、びっくりしたことがあったの……」  昨日、私はマタイ産婦人科へ検診へ行った。 「びっくりしたこと?」 「すごくびっくりしたわ」  病院からの帰り、私は小夜子に会ったのだ。  第七章  麗しき朝も  静かなる夜も  わがままを捨てて  人々を愛し  その日のつとめを  なさしめたまえや  つとめを  なさしめたまえや 「あの……りっちゃん……?」  駅の切符売り場で、背後から呼ばれ、私はふりかえった。  小柄な女性が立っている。女児を連れている。セロリの茎の色のワンピースを着て、女児はワンピースのスカートのあたりをつかんでいる。 「りっちゃん」  女性は口もとに手を当てている。折り曲げた腕の、その手首のかぼそさに幸せが保証されている。 「白川理津子ちゃん」  名前を呼ばれて私は、彼女がだれかを考えはじめた。 「そうですけど……」  私が答えると、彼女は笑い、目尻《めじり》に細かな皺《しわ》がより、皺のせいでまた、私は彼女がだれかがわかりにくくなる。 「キャロちん」  庇護《ひご》されるべき繊細な手が私の手に近寄る。私は彼女が小夜子だと知った。息を大きく呑《の》み、吐く。 「いやあ、なんで? なんでこんなとこにいるん?」 「うん、東京の親戚《しんせき》に用事があって、それがここらへんやったさかい」  私と小夜子は、なんども「いやあ」「いやあ」と驚きの声をあげた。  天井の高い喫茶店に入り、アップル・ゼリーを注文した。 「いやあ、びっくりしたわ……。ほんまにびっくりした。まさかこんなとこで会うと思わへんかったわ」  小夜子は、となりの椅子《いす》にすわらせた女の子をなだめてから、また私のほうを向いた。 「お子さん?」 「うん。八つなんやけど」 「そうか、そらそやなあ」  子供がいて当然の年齢なのだ。それほど年月が経っているのだ。 「りっちゃんのことは、前にやってたコマーシャルで見てたさかい、わたしのほうはすぐにわかったんよ。コマーシャルで見たときのほうが今よりもっとびっくりしたけど」 「へえ、テレビ見てすぐにわかった?」 「ううん、教えてもうてわかった。りっちゃんは六年生のときに引っ越したやろ。わたしは中学に入った年に大阪に引っ越したんや」 「ああ、そう。そうやったん」 「大阪にいたままやったら、そら、いくらコマーシャルで見たかてわからへんかったと思うけど」 「そらわからへんわ」 「うん。そやけど、五年前くらいかなあ、この子が三つのときやったさかい……、あの町にまた戻ったんや」  あの町。コートネイさんの教会のあった、うどんの『こだま屋』のあった町。 「そやさかい、コマーシャルに出てはるの、これ、小さいころよういっしょに遊んだ白川理津子ちゃんやで、って教えられて……。もう、ほんまにびっくりしたわ」 「そんなに頻繁に出ぇへんコマーシャルやったやろ。期間も短かったし」 「そやけど、もう、コマーシャルのたんびにさわいでたで。ナプキンかて、りっちゃんのすすめるやつに替えたくらいやもん」 「そら、おおきに」  短い歓声が私たちの席におこった。 「そしたら、今もあの町に住んではるのん?」 「うん。そやねん。あの町の、ほとんど同じ場所に住んでるねん」 「へえ。お母さんも」 「ううん。母親は大阪にいる。わたし、結婚したん。おぼえてる? 河村洋一郎ちゃん」 「えっ」  私はとなりの椅子で漫画を繰《く》っている女の子の顔を見つめた。 「そう。洋ちゃんと結婚したん……」 『吉幸楼』の跡取りである洋一郎はさぞかし子煩悩なことだろうと、彼の顔を思い出そうとしたが、幼いころの顔しか浮かばない。 「……その子は前の夫の子やねん。夫ゆうたかて、籍は入ってへんかったけど」 「え、あ、ああそうなん……」  私は返答に困った。なによりもまず、年月の経過のなかにおける変化が自分にはほとんどないことにとまどった。  五歳のころに長寿山の洞穴にひとりで入っていった私は、十歳になっても、十七になっても、二十五になっても、三十五が近づいても、ずっと同じままに、ひとりで暮らしている。皮膚が砂でできているように感じるほど、ひとりで居る。  ときどき部屋の中で、墨を使った絵を描いていると、そのまま自分が墨絵のなかに居るように思うほど、私はひとりのまま、ひとりで暮らしていて、ひとりの生活がなんら変化なかったのだと、他人の生活の変化を聞くと思い知らされる。 「大阪にいたころにつきあってた人なんやけど……なんとのう、いっしょに暮らすようになって……」  生活力のまるでない男、という表現を、小夜子はした。もう、別れたかった、という表現もした。病院へ行く前に受けた取材で話に出た読者の手紙を、私は思い出した。 「子供ができたかてやっていけるような生活と違《ち》ごたのに……」  もう別れたい男となぜ避妊もせずにセックスに応じたのか、と、私はもう少しで詰問しそうになったが、やめた。ふしだらだと詰問してどうなるだろう。 〈男と女ってそんなものなんじゃないの〉  私を取材したカメラマンと女性記者の、かんじのいいほほえみが、向こう側に在った。 「この子ができてから——」  小夜子は声をごく小さくした。 「——ほんまに生活なんかできひんようになって、別れたん。別れてからはお母さんといっしょに暮らしてたんやけど、割烹《かつぽう》料理の店で働いてたんや」  その店で河村洋一郎と再会したのだと小夜子はつづけた。 「あの人『吉幸楼』の跡取りやけど、まあ、一種の修業やったんやろね、偶然やなあ、言うて、それで、よう話すようになって。りっちゃんもおぼえてるやろ、あの人、小さいころからやさしかったやん?」 「うん……」 「小さいころのままなんや。すごいやさしいの」 「うん……」 「まあ、やさしいてゆうことは、誘惑にも弱いてゆうことなんかもしれへんけど……」  洋一郎が『吉幸楼』の若い仲居と浮気したことを小夜子はすこし話した。 「うん……」  私はアップル・ゼリーが食べられなくなっていった。スプーンを持つ手に力が入らない。小夜子を前に私の腫瘍《しゆよう》のできた卵巣がひれふしている。  たちうちできない威力が小夜子には備わっている。  そう思った。  子供を育てられる状態でもないのになぜ避妊もせずにセックスに応じたのですか。なぜ自分を律しないのですか。  このような問いかけにだれがなにを答えてくれるだろう。  ふしだらなことはいたしません。  自らを罰し、自らを律しても、私ではなく小夜子が選ばれる。小夜子のみならず彼女が出した小型の人間もともに掬《すく》いとって男は庇護《ひご》する。  結局、女として優れているのだ。  私よりもはるかに、はるかに、はるかに、彼女は女として優れている。律する精神など、異性には何の輝きも放ちはしないのだ。私は選ばれはしない。 「たんなる浮気やてわかってても、わたし、そのときはきいきい言うてしもて、派手な喧嘩《けんか》になってしもたわ」 「うん……」  夫の浮気を「きいきい」と咎《とが》められる神経を小夜子は持っている。仮に私が小夜子の立場であっても、私は、ぜったいに咎められない。咎められる神経が、私には欠落しているのだ。私にもし配偶者がいたとしたら、彼が浮気をすれば、それは、私が悪いからだと考える。 「いやあ、かんにんな。なんや、わたしの内輪の話ばっかり聞かせてしもて」 「ううん。幸せそうやわ」  私が言うと小夜子はすこしはにかんで、幼いころによく見せた、野生の小動物のように蠱惑的《こわくてき》に瞳《ひとみ》を光らせた。 「二人目が生まれるねん。四カ月なんや」 「そう。よかったねえ。洋一郎ちゃんも喜んではるやろ……」  私は小夜子にひれふした。ただ、ひれふした。さっき、マタイ産婦人科で金属の医療器具を挿入された感覚が私の股間《こかん》でかちゃ、かちゃ、と音をたてているようだった。  姦淫《かんいん》するなかれと云へることあるを汝等《なんじら》きけり。マタイ伝と同じ名を持つあの病院の器具の音。  音は私の顔を小夜子から逸らさせた。 「うらやましいわ」  小夜子を見ずに、心から小夜子に言う。 「いややわあ。りっちゃんみたいに出世した人が何を言うてんの」 「べつに出世なんかしてへんわ……。ひとりで暮らしてるだけのことや」 「そやかてりっちゃんみたいな人は結婚せえへんかっても、いっぱい恋人がいはるやろ」 「……コイビト。コイビト」  ぼんやりと反復した。 「な、いはるやろ」 「ううん。私にはいいひん。男の人には私はいつも友達やわ」 「なに言うてんの。男女間に友情なんかあらへんやろ。おかしなこと言うて……」  小夜子は笑った。男女間に友情などないと素直に思えるほどに、彼女は骨の髄から女なのだと私は思った。 「女の人のほうが私に恋してくれはるくらいやわ」 「いやあ、またおかしなこと言う」  小夜子はいっそう笑った。男女間に友情などないと思える神経は、同性間に恋愛、あるいは恋愛に近い感情が生じることもまた発想できないのだと思う。それほど小夜子は女なのだ。 「うらやましいわ」 「いややわあ。なに言うてんの」  小夜子はまた笑い、時計を見、それから私たちは挨拶《あいさつ》をかわして別れた。アップル・ゼリーを半分、私は残した。     * 「乾燥りんごはあるか?」  大西に言われ、私はコートネイさんの乾燥りんごの箱を冷蔵庫から出した。大西は乾燥りんごを手掴《てづか》みで食べた。 「かすかすで酸っぱい」 「そうだって言ったでしょう」 「こうすりゃアップル・ウォーターになる」  瓶の中に一掴み、一掴み、乾燥りんごを入れた。ガラス瓶の細長い口に乾燥りんごはうまく入らず、ぼろぼろとテーブルにこぼれた。 「飲んでみろ」  大西はまた私の口に瓶を押しつけた。飲んだ。 「そんなに悪い味じゃないわ」 「そうか」  大西も飲んだ。 「ほんとだ」  TVのなかで女優は海岸を歩いている。 �私、ずっと海を集めていたのよ�  字幕が出た。 「この人、きっといつもこういうゲイジュツ的なこと言って男を誘うのよ」  私はこぼれた乾燥りんごをTVに向かって投げつけた。 「この人の写真に針を刺したことがあったわ」  二度目の出産も双子であったニュースを雑誌で読んだとき、記事の横に載った彼女の顔写真に針を刺した。裁縫箱にあるかぎりの針を刺した。 「奇声をあげながら針を刺しつづけた」  こわれそうな繊細な肉体から一度に二個の赤ん坊を二回出した彼女に対し、私はなにを感じたのか。 「ヘーゼル色の瞳に涙をため、震えるくちびるで爪《つめ》を噛《か》んでいるきれいな写真だったわ」  私はTV画面を見つめ、大西は私を見た。 「だから言っただろ。いったい針を刺すほど怖がること、なにがある?」 「戦車のようで怖かったのよ」  彼女は、  彼女にはなれない者から、  根こそぎなにかを剥《は》ぎ取っていく戦車のようで、  怖かったのだ。 「戦車? こいつが?」  大西は笑った。 「こいつが戦車に見える? じゃ、こいつは戦車なんだよ。戦車のようなヴァギナの女」  戦車のようなヴァギナ。大西は声高に復唱した。 「戦車に轢《ひ》かれるのが怖いんだ、あんたは。こいつじゃなくて、戦車のようなヴァギナに轢かれるのが」  大きな音をたてて瓶を置いた。 「轢かれるのが怖いんだ」  私の上半身はびくっと硬くなった。 「そうよ」  彼女に楯《たて》ついてはならない。彼女が私に命じた役割だけをこなすようにしていないと、世界から笑われると思い、私は怖かったのだ。彼女が怖かったのではなく、人々にあざ笑われることを恐れたのだ。  あいつ、繊細でもないくせに繊細な役をやりたがってるんだぜ。あいつ、鈍重なくせに鋭敏な役をやりたがってるんだぜ。ひそひそ声で世界が私をあざ笑うのではないかと恐れたのだ。 「私は私のつとめを守らなければ」  一日、一日、つとめを守り、一日、一日と乳房は確実に衰え、一日、一日、と確実に臀《しり》が衰え、腿《もも》が衰え、私は年をとる。子宮も腟《ちつ》も卵巣も、本来の機能目的を何ら果たさぬまま衰えてゆく。 「怪奇・砂人間のつとめ」 「つとめ、ね。プール監視員にそんなつとめが想像できると思うか? 自分が腕枕《まくら》をしている女は幼年時代に教会で神父に育てられたのかもしれないと、そいつが想像できると思うか?」  ペニスは何の想像力もない。 「鈍感なんだよ。鈍感きわまりない。だが脆弱《ぜいじやく》なんだよ。戦車のようにはできてないんだ。そいつにあんたの生い立ちを気づかえというのは酷だ」  がん、がん、と大西はミネラル・ウォーターの瓶でテーブルを叩《たた》いた。 「プール監視員が腕枕をしてくれた夜、私はなにかをすべきだったの?」  トレーナーとジーンズを着た彼は、サッカー地のシャツと木綿のズボンを着た私に寄り添っていてくれた。私の首のうしろの皮膚は彼の腕の皮膚に触れた。 「好きだったんだろ、そいつのこと」 「私がどうすべきだったっていうのよ。わからなかったわ」  あの夜、二十八歳だというのに私はわからなかった。岩石のような身体《からだ》をした女は、首と腕が接触する近距離に人がいてくれるだけで光栄で、気を失いそうだった。 「教えてほしかったわ」 「教えてほしかった? なにを?」 「…………」 (教えてほしかった……? 教えてほしかった……?)  プール監視員に対し、私が心の奥底で望んでいたことは、本当にそのような恥じらいと謙虚さか? 「いいえ、私は、本当は」 「本当は?」 「私はこの女優のような女を蔑《さげす》んでたわ。いつも巧妙に男の気をひいて、男もそれにひっかかって、なんて狡《ずる》がしこい女だろうって、妬《ねた》ましかった。だから針を刺した。無傷のようで、妬ましくて憎くてならなかった」  きっと、それが真実である。 「プール監視員と知り合って、よけいに私は劣等感を強くした。私の裸を見たら落胆して嫌うんじゃないかって、怖かった」  そして劣等感の裏返しである傲慢《ごうまん》な願望。生まれてはじめて私を好きだと言ってくれた男に対し、私は、多くの男が魅力を感じえない肉体に、繊細ではない、傷つきやすそうではない肉体に、ささやいてほしかったのだ。  そんなことないよ。  そのひとことを、言ってもらいたかった。傲慢にも私は願ったのだ。嘘《うそ》でもいいからきれいだとささやかれたいと。映画の主演女優しか、小夜子のような女しか願ってはいけない大それた願いを、私は持っていたのだ。 「持ってりゃいいじゃないか」  大西は大きな声を出し、私は立ち上がった。家具のないに等しい六畳の、TVと大西の対角線のちょうど真ん中に立ち、TVでも大西でもない方向を見た。 「持たなきゃ、わからないぜ、相手には。示せないから冷たいんだよ」  砂人間。鉄人間。大西は私を呼んだ。 「となりのクラスの女生徒に品物を運ぶ役など、いやだっただろ?」 「ええ」  きっとそれが真実である。 「Rに電話をかける役など、いやだっただろ? 食事のときに栗本が料金を折半するのも、いやだっただろ?」 「屈辱的だったわ。おごってほしかったわ。払うわ、という私の申し出も、電話をかけてあげようかという申し出も、いいよ、という断りだけを期待していた」  きっと、それが真実である。 「そんなことないよ、って。刹那《せつな》のことばでいいから、願ってた。大それた願いだったわ」  私はひとさし指と中指を目の下に当てた。二本の指で堰《せき》をこしらえた。眼球やまぶたから流れるものをくいとめなければならない。堰は指二本では足りず、薬指も小指も要した。手で目を覆い、泣くことを拒否した。 「そいつの横で震えてみせればよかったんだよ。それだけで、そいつはそう言ってくれたぜ、たぶん」 「できなかったわ」 「これからはそうしろ」 「できない」  ドライバーで処女膜を掻爬《そうは》し、金属の医療器具しか腔に挿入したことのない三十三歳の女が、この先もし、男の皮膚に触れることがあったとしても、そのときベッドで笑うしかないではないか。この年齢で震えてみせろとだれがいうか。 「笑ってみせるわ」  目を手で覆い、私は喉《のど》をしゃくりあげた。 �pourquoi,pourquoi�  TVから女優のセリフが聞こえた。字幕なしでもわかる簡単な単語。なぜ。それからベッドが軋む音が聞こえた。  子供のころから、私のベッドは広かった。 〈広いベッドで寝ると大きくなります。丈夫で強い子に成長してください〉  コートネイさんは、マリー・ビスケットに似た壁紙の部屋に大きなベツドを用意してくれた。聖職にあるコートネイさんの願いはききいれられた。 「おい」  大西が私の手首を掴《つか》み、私は洋服の袖《そで》で顔を拭《ふ》いた。  手首を掴まれたまま、私は押され、うしろに歩き、背中が壁にぶつかる。大西の肩が私の顎《あご》を押し上げ、彼の顔は見えなくなる。首が絞められるようで苦しくなった。 「強姦《ごうかん》してやろうか」  低い声で彼は言い、スカートをまくりあげた。 「俺《おれ》、去年まで刑務所に入ってたんだぜ。女を強姦して」 「嘘」  気が抜けそうなほど幼稚な声が私の口から出た。信じられなかった。 「暗闇《くらやみ》で襲いかかったわけじゃない。知ってる女さ。誘ってるんだと思ったんだよ。許して、なんて言いながら、俺が服脱がすのにも脱がせやすいように身体の位置を変えてさ。そんな女の態度が薄汚くて、だからめちゃくちゃ興奮した。三回犯《や》って訴えられた」 「強姦じゃないわ……」 「向こうはそう思ってるんだよ」  大西は私の乳房を強く掴み、 「映画に出てる女優よりずっとでかいぜ」  腿を割り、指を股間《こかん》に当て、 「ここに嵌《は》まってるのは鉄人のものじゃないだろ」  言った。 「けど——」  大西の力が弱まり、私は首を動かした。 「——けど、俺はあんたじゃ勃たん」  大西は私の肩から背中に両手をまわし、私を抱きしめた。 「御正論すぎてね」  大西は私の顔を見た。それは静かな顔である。私と同類の顔だとも、同時に気づく。 「あなたを訴えた彼女は正論を吐かないからあなたを勃起《ぼつき》させることができたのよ」  彼もまた、なにか健《すこ》やかではないものを抱えているのだ。 「好きな女がいたら、そいつを抱きたいと欲情できるような男になれたらどんなにいいかと、いつも思ってた」  結婚した相手のことが最初から愛せなかった。大西はそう言った。 「結局、向こうは出てったけどさ」  憎悪にしか欲情できない。大西は、そういう意味のことを、言った。 「大西さん——」  私は大西の肩に両腕をまわした。 「——私も大西さんじゃ勃たないわ。大西さんとは相通じすぎて」 「困ったもんだな」 「そうね」  私たちは家具のない六畳で、ずっと肩を抱きあっていた。  TVの映画はラストの音楽に「哲学的な」センチメンタルなピアノの旋律を使っている。 「恥ずかしい曲だわ」 「ほんとだ」  大西の胸が大きく揺れるのが、私の胸に響いた。 「あんたのことはとても好きだよ」 「私も」 「恥ずかしいと思わない奴《やつ》にセックスしてもらえ。相通じなくて、きっとびんびんに勃つぜ」  私は大西の言い方がおかしく、すごく笑った。 「どこにいるの?」 「探せばどっかにはいるんじゃないか。欲しいものは自分で探せ」 「同じことが聖書にも書いてあったわ」 「そうか。じゃ、いい本なんだな」 「また、いっしょにごはん食べようね」 「ああ」  私は大西を広い通りまで送った。 「大西さんとごはんを食べるのはすっごくおいしい」 「俺もだ」  大西は財布から五円玉を取り出し、 「五円玉って隠語なんだぜ」  私ににぎらせた。 「穴あき」 「あ、そうか」 「マタイ伝だっけ? それからすると、あんたはそうなんだろ」 「うん」 「鉄人でも男でもなく女であることは神様だって変えられない、それを認めないから鉄人になって男になるんだよ」 「…………」 「噛《か》まずに鵜呑《うの》みにしろ」 「……うん」  私はタクシーに乗る大西に手をふった。     *  午前二時四十三分。  私はシャワーを浴びてひとりきりの部屋でベッドにもぐった。  広いベッドである。照明を消した部屋でベッドで眠れずにいると、そこは夜の海のように広い。夜の海のように、どこまでが岸でどこからが海なのか、岩があるのか桟橋があるのか事物との境界線がわからない。  ずっと私は広いベッドで寝ている。そして記憶のあるかぎり、ずっとひとりで寝ている。 (なんて長いのだろう)  ベッドのなかで、私は寝返りをうった。ひとりでいる時間がなんと長い生活をしてきたのだろうと思う。 〈ひとりでいるのが好き〉  そう言っていたのはだれだったか。栗本だっただろうか。佐代子だっただろうか。それとも編集者だっただろうか。Kだっただろうか、カメラマンだっただろうか。地学の教師か、画材屋の店員か。だれだったか思い出せはしないが、ひとりでいるのが好き、だと言えるのは、果てしなく長い時間をひとりでいたことのない人間だからである。彼、あるいは彼女にとっては、ごく短い時間にひとりでいることが新鮮なのである。  菊井の部屋に泊まったとき、私は新鮮であった。ひとりではない時間が、彼の性も私の性もまったく忘れさせてしまうほど新鮮であった。 「鉄人間、砂人間」  私は毛布の波のなかで自分を呼んでみた。まっくらである。大西という友人を得て、その呼称はどこか気軽な色合いをおび、私はまぶたを閉じた。 「五円玉」  毛布の波がどろりと自分にかぶさる。じっと波のなかにいると、自分の身体《からだ》は鉄ではなくもっと柔らかいものでできていて、ここに浮かんでいるような気がする。乳房を掴むと、心臓が動いているのがてのひらに伝わった。 「明日はおいしいコンソメ・スープを飲みましょうね」  いつものように私は言った。広いベッドにはとなりにだれかがいることに、私は長いあいだ、そういうことに、していた。 「とても愛しています。ありがとう」  その人は決して現実には存在しないのだが、拙《つたな》い手段でそう言うと海があたたかくなるような気がした。  他人の家に預けられていた長い時間。私はその時間をすこしも疑いはしなかった。すこしもかなしみはしなかった。そして今も、かなしみはしない。  ただ、その長いひとりの時間のうちに、私が、自分で、歪《ゆが》めたものをかなしむ。  コートネイさんのことを私は慕っていた。口数少なく厳しくとも、彼が私を慈しんでいてくれることを、私はよく知っていたのに、なぜ私はもろ手をひろげ、胸にとびこめなかったのだろう。慕うがままにとびこめば、コートネイさんは抱きしめてくれただろうに。  礼拝堂の神はいつもやさしく目を伏せていたのに、なぜ私はカトリックの非情な性の戒律だけを肥大させて自分を縛ったのだろう。だれかを愛することはよろこばしいことであると聖書に記されていることを知っていたのに。  だれもいない夜のベッドの海。これからも私はずっとこの広い海にひとりで沈んでは年をとるのだろうか。だれもいない夜の海に沈んでは翌朝を迎えるのだろうか。  律して律し、律しつづけ、なぜ牡でも牝でもない中性の鉄人の役割を担わねばならないのか。私にも律せないことがあるのに。  Je suis une FEMME, moi aussi.  私もまた生身の女であることを、なぜこんなにも抑制しなければならないのか。なぜ私は女としての自信を喪失してしまったのだろう。 〈ここに嵌まってるのは鉄人のものじゃないだろ〉  大西の言ったとおり、私の股間には両性の性具が嵌め込まれているわけでなく、私はあきらかに女であるのに。  pourquoi.  問いかけても海は答えない。すべては、私が、自分で、歪めてしまったのだ。  ゆっくりと、ゆっくりと息をした。三百十三回、息を数えた、息をするごとに、毛布の波が体温でなまあたたかくなってゆく。ひとりだけの体温でさえ、波はなまあたたかくなる。海の底に明白な事実だけがある。  私は男に攫《さら》われたい。甘えたい。犯されたい。庇護《ひご》されたい。  ひとさし指と中指を、口に含めば、二本の指のはらの、やや硬い皮膚が舌を走る。頬《ほお》の裏側を掻《か》く。喉《のど》を撫《な》でる。くちびるが唾液《だえき》で湿った。指も湿った。湿った指は首に触れ、鎖骨に触れ乳房を嗅《か》ぎあて、それを掴み、乳頭を唾液で湿らせる。肺がたくさんの窒素と酸素を吸い込み吐き、胴がよじれて海のスプリングからせりあがる。皮膚は砂ではない。臀部《でんぶ》も大腿部《だいたいぶ》も呼吸している。鉄ではない。皮膚は砂でも鉄でもない。触れられれば感応する生きた肌である。鼠蹊部《そけいぶ》が挑発している。左手の二本の指は乳頭を湿らせつづけ、左手の二本の指は、この身体が中性ではないことを確認する。そこは、濡《ぬ》れて欲している。こんなにも濡れて欲している。男に飢えて欲している。私は男が欲しい。男が欲しい。業火に焼かれるほど、欲しい。  文庫版あとがき(解説にかえて)  本書は『ドールハウス(角川文庫収録)』につづく作品である。  あとがきや解説から先に読む読者も多いので、本書が三部作の第二部であると告げるのは、ためらう。その長さを知り、本書を買うのをやめてしまう人がいるのではないかと。  だが、「三巻」ではなく、あくまでも「三部」であることを強調したい。  三部すべて、主人公は処女である。しかし三部ともすべて、主題は処女ではない。「処女であるという環境」を背負った女性が三部すべての主人公になっているが、各部によって主題がことなり、よって主人公の年齢も職業も時もことなる。名前自体も、理加子、理津子、理気子、と変化してゆくように、主人公の背景も変化してゆく。それでいて三人とも同じ女と見ることもできる。また、別の女と見ることもできる。だから、三部をひとつの長編と考えて順に読むのも、各部を独立して読むのも、どちらも可能である。選択は読者の自由である。  では、ここより先は本書『喪失記』に的をしぼって言及してゆく。 「私は男に飢えていた」  本書は主人公理津子の、この独白からはじまる。単行本として刊行されたときも、この独白がそのまま帯のコピーとなった。コピーというのは人目をひかねばならない。購買欲を高めねばならない。広告というものの本来的機能を、この独白はたいへん果たした。某雑誌で、本の帯のコピー大賞をとったくらい。 『喪失記』という題名の「喪失」という語も、この独白を煽動《せんどう》した。  しかし、効力の強さの諸刃《もろは》の剣の法則は、この独白にも生きていた。 「ニンフォマニアの話である」  と、判断する人が大勢いたのである。そう判断した人は、当然、ニンフォマニアがニンフォマニアたる行動をする場面が、この作品に満載されていると期待し、裏切られ、そして落胆する。  もちろん理津子は、ある点ではニンフォマニアである。 「私は男に飢えていた」  この独白に偽りはない。 「しからば、さぞかし醜く、暗く、男に見向きもされない女の切実たる告白であろう」  と、人は(とくに男性は)想像するのだろうか。  一人称の構成をとったために、理津子の外見についての詳しい叙述を避けざるを得なかったが、彼女の外見をここで綴《つづ》ろう。白川理津子の身長は168�。鼻梁《びりよう》が高く、額から鼻にかけてのカーヴが、日本人にしては小さく、鼻先の下部にごくかすかな割れすじが入っている。つまり横を向いたさいに、額からいったん凹《くぼ》むことがほとんどなく鼻へとつづく。太さ細さの度合いは平均的であるが、骨格は大きく、腰の位置(胴のくびれる位置)が平均より抜きんでて高い。いわゆるスリーサイズというのを記せば94・60・96というところか。髪は短い。前髪は眉《まゆ》にかからず、サイドの髪は耳を覆っておらず、襟足は刈り上げてはいないが、小刻みにカッティングされており首が露出している。  こうした外見の理津子は男に飢えている。男と女の関係を希求している。 「なぜ?」  問う人がいる。そう問う人は、理津子が「ふつうの人」であることがわかっている。理律子は犯罪者でもなければテロリストでもなく薬物中毒でもなく、極端に富裕でも貧しくもなく、何らの危険性も奇異もなく社会生活を営んでいる常識を備えた人間である。知人に会えば挨拶《あいさつ》をし、友人に会えば笑顔をかわしあい、互いの健康をよろこぶ。だから問う人がいる。 「なぜ、理津子のような人が飢えなければならないのか」  と。なぜだろう。なぜ理津子は飢えているのだろう。その理由を綴ったものが本書であるわけだが、彼女の希求するものは、男の精液ではなく、自らの内にある問いに対する答えである。つまり彼女もまた「問う人」なのである。  理津子の内にある問い。それを原罪と、ここで言ってしまっていいものかどうか。たしかに、彼女は年端も行かぬころからキリスト教の施設や関係者のもとで育つ。早熟な子供であった理津子にとって、カトリックの戒律はなににもましておかしがたい絶対として存在してはいた。いや、絶対として存在しているようであった。子供であるがゆえに、カトリックとアイデンティティとの関係を完全に把握できずにいた。成長とは、アイデンティティの確立してゆくさまを指すが、このプロセスにおいて人はあらゆる問いを抱き、確立するにしたがって答えを見いだしてゆく。  十一歳のときに、理津子は別の社会に突然、移動している。そこには神父コートネイさんはおらず、松子先生はおらず、壁には十字架がかからず、父と母がいた。日本の家である。父と母は、理津子の濃い血縁者である(この血縁や「家」に焦点を当てたものが第一部『ドールハウス』であるが)。そこはカトリック社会ではなかった。  絶対神概念の社会の使者である神父と暮らしていた幼女が、絶対神概念のまったく存在しない社会に移動するのである。そしてその幼女は早熟で、克明に自己のそれまでの生活を記憶しているのである。ここに理津子のひずみの一因があろう。ひずみは彼女のなかで、社会と自己とのずれとして、音もなく堆積《たいせき》してゆく。 「神の前にあって民は愚かであり、神に畏敬《いけい》してつつましく、隣人を愛するべきである」  理津子は幼少時に諭されつづけた。それがいかなることなのか、具体性を持たず、彼女のなかで未消化のまま、彼女の肉体はやがて幼女ではなく成熟した女体へと変わる。だが、その女体が異性から望まれるものにちがいない、あるいは望まれるに値するものであるという「前提」が傲慢《ごうまん》であると思う。すなわち「神の前にあって民は愚かであり、つつましく隣人を愛するべきである」という教えに反すると思うのである。女性性を自分が所有することが罪悪であると思うのである。そして罪悪感を「私は強い」という詭弁《きべん》で覆うのである。  だから、理津子にとってセックスという行動自体は、さして意味がない。本書は理津子という女性のセックスに対する感情なり心境なりを綴るものでもない。なぜなら、理津子は、自分が女性として存在しても許されるのかどうかを、だれかに答えてもらうことに飢えているからである。明言してもらうことに飢えているからである。  愛する人がいて、愛をたしかめあうためにセックスする。互いによろこびあうためにセックスする。これが通常の男女であるとするとき、愛など問わず、快楽だけのためにセックスに狂う者はニンフォマニアと呼ばれる。ならば、明言してもらいたいがためにその手段としてのみセックスを考える理津子もニンフォマニアである。本末転倒という点で。  極端に言えば、明言さえされれば、理津子のひずみは消え、それからようやく健常な性の感覚を持てる。だから助けてくれと、理津子は飢えている。しかし、そんなことは不可能である。ヴァギナにペニスが挿入される快楽を求めてセックスを望むのではない女に、いったい男が勃起《ぼつき》できるだろうか。男やセックスになんらの期待を持たぬ女に、いったい男はなにを与えられるだろう。自己の内部にある問いに他者が答えられるだろうか。解決できるだろうか。不可能である、と理津子ではなく作者は思う。  それを彼女に教えるのが大西大介だ。表層部分はまったく違うが、質的に彼と理津子は似ている。理津子の性が女から男へ変わったような男である。二人の間には男女間における完璧《かんぺき》な友情がはぐくまれていると言える。彼が鏡となって彼女に、その不可能さを直視させ、理津子はようやく、彼女自身の時間を受け入れるという解決を見いだす——静かなハッピーエンドのあと、第三部へとつづいてゆくが、理津子の問いはもう第三部にはない。『喪失記』は本書をもって終わりである。  カトリック神父のもとで幼少時を過ごした人の数は、日本では当然、少ないと思う。だが現代の日本において、経済的に自立し、仕事上の対人関係も円満で、容貌《ようぼう》にも何の問題もない、周囲からは成熟したと見られている女性の、いったいどれだけが成熟したリレイションシップを恋人なり婚約者なり夫なりと持っているだろうか。おそらく彼女たちの数のぶん、ひずんだ問いがあると私は思う。セックスをしたことのない三十代の(しかも美しい)女性も、少なからずいると思う。掻爬《そうは》のためだけのセックスを一、二度しただけという女性にいたっては、さらに多いだろう。彼女たちは口を噤《つぐ》んでいる。彼女たちの夜は、自己のひずみの海である。決してあなたはひとりではないと、彼女たちのその海に、ひとときでも灯火を映せたらと私は願う。  一九九七 冬  姫野カオルコ  角川文庫『喪失記』平成9年12月25日初版発行           平成13年8月5日6版発行